鹿友会誌(抄)
「第三十一冊」
 
△祭石川伍一君辞
 維持昭和三年十二月二十二日、鹿友会員小泉榮三等謹むで故従伍位石川伍一君の霊に告ぐ
 君は鹿角郡毛馬内町の先覚者石川儀平氏の長男にして、慶応二年孤々の声を挙げ、十四歳の 春東京に出でゝ攻玉舎に学び、後、漢学を修め、明治十七年、時の海軍大尉曾根俊虎氏に従属 して上海に渡り、後、天津に転じ、更に北京公使館附武官の知遇を得て、支那国内の事情を深く 調査する所ありしなり
 
 時一滴に日清の風雲急を告げ、小松公使・荒川領事一行の引き揚げに際し、独り留まることの 危険を以て帰国をすゝめられしも、君は遂に肯んぜず、『帝国の危機の際会して、一人の敵地に 留まる者なければ、如何にして敵情を探るべき、余輩、清国に在る事、前後十有一年、困苦冒険を 重ね、国情を調査したる所以も、今日あるを期したればなり』と自ら一身を君国に捧げ、 国難にとゞまりたるなり
 
 而して君は相貌装身、悉く清人に擬し敵地に入り、所謂日探として偵察に従事したるに、或日 天津城内商店に買物を為したる事より疑を受け、支那官憲の尾行するところにより、脚の相違等 より愈々日本人と判定せられ、時の直隷総督李鴻章軍の為め捕へられ、天津城外の露と消えられし、 忠烈は永く皇国の精神となり、以て帝国を無窮に守護せむ、
 時は明治二十七年九月二十日、君は僅か二十九歳の時なりし、茲に星霜移る三十五年、曠古の 御大典に際し、畏くも天恩の垂るゝところ、君に対し国難に殉じたる功績を追賞せられ、従五位を 贈らる、洵に君が国に致せし忠勇義烈は、長に汗青を照らすに足り、死して芳名を竹帛に垂るゝの 名誉と謂ふべく、君また瞑すべき也、
 
 顧みて君の武勲の限りなきと共に、郷党後輩に寄せたる遺訓教示も亦尠なしとせず、吾が鹿友会 創立当時の功績、枚挙に遑なしと雖も、今日四百余名の会員を有し、育英の事業に成功を収めつゝ あるは、君の識見俗を抜き、抱負の遠大なりし反映とも言ふべく、既に二十一名の貸費卒業優秀なる 青年を世に出し、報国の精励を尽し居るを聞かば、君又地下に頷るべし。
 抑予は之に因って、君が鹿友会に望む所あり、誠に君の志を思はゞ、則ち宜く挙郡一致、会の 隆盛に努め、以って君の教を紹ぐべし
 聊か懐を述べて祭文に代ふ
  昭和三年十二月二十二日
     鹿友会幹事長 小泉榮三

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