鹿友会誌(抄) 「第二十七冊」 |
△石田の叔父さんと私 小田島信一郎 怖い叔父さんといふから、叔父さんといふものは、怖いものに相場がきまってるやう であるが、石田の叔父さんは、私にとって、怖い叔父さんであり、また、やさしい叔父 さんであった。 叔父さんは、私の生れる前から、郷里を去って、一生涯の大部分を、関西の方面で過 されたので、私の少年時代には、殆んど叔父さんに会ふ機会はなかった。中学の二年頃 に、叔父さんが郷里に来られた時、始めておめにかゝったやうに記憶して居るが、其時 の印象は、はっきりしない。 だから、叔父さんと私との交渉は、私が郁文館の四年を終へた年の春休に、博覧会見 物がてら、今は亡き弟と共に、大阪に旅行した時から始まるといってもいい。その時か ら、もう二十余年経過する。 二十余年といへば、短からぬ年月である。其間には、叔父さんの家にも、いろんな変 化があった。快活で悧巧で、可愛らしかった菊枝さんが亡くなったり、英一郎さんと、 英二さんと、男の子が、二人続いて生れたり、住み馴れた大阪を引揚げて、東京に来ら れたかと思ふと、間もなく京都にうつられて、永住の地とされたりした。 私は、明治三十七年即、日露戦争の始まった年に、岡山の第六高等学校に入学したの で、其頃大阪に住んで居られた叔父さんの一家とは、自然接触する機会が多くなって、 夏休みに国に帰る時は、往復共に立寄るのは勿論、春休、冬休のやうに、期間の短い休 暇には、いつも叔父さんの一家と共に、大阪の家か、海岸かで過すのを例とした。 和歌の浦には二冬、お伴して行ったやうに記憶している。南国といふ感じの、特に著 しい所で、其優美な入江の景色を、一眸の下に集むるといふ好位置を占めて居る米栄別 荘で、叔父さんの一家と、愉快に冬の数日を過ごした時の事は、未だに忘るゝ事が出来 ない。さうした時には、叔父さんは従弟妹達にとっては、いつもやさしい、愛情に満ち たお父さんであり、女中や宿の人達にとっては、親切な、いゝ旦那さまであった。 けれども、叔父さんは決して、子の愛に溺れるといふやうな人ではなかった。自ら侵 す可らざる父としての厳格さを備へて居た。それは、身を持する事謹厳であって、世の 常の紳士が、家の外にあっては、勝手な振舞をして居ながら、家庭に帰って、遽かに威 厳を保たうとする如き人格を、二重に使ひ分けする必要がない為めに、溢るゝ如き慈愛 の底にも、尊き父徳の光を放つものとみらるゝのであって、私の叔父さんを畏敬するの も、かういふ点である。 私は一番始めに、石田の叔父さんは、怖い叔父さんであり、またやさしい叔父さんで あったと書いた。私は、二十余年の間に、叔父さんには可なり叱られた。叱られた時に 、自分にも理屈を考へて、強ひて反抗心を起したりした事もあるが、静かに考へてみる と、どうしても叔父さんの方に道理があった。 叔父さんは、人を叱りっぱなしにはしなかった。叱った後には、きっと親身になって 心配して下された。 だから私は、叱られゝば叱られるほど、益々叔父さんをなつかしみ敬ふやうになった 。私が、叔父さんを怖いと感ずるのは、自分の弱点をすっかり叔父さんに見透されて居 る事を知ってるからである。私の長女も、『石田の叔父ちゃんは怖いよ』といって、叔 父さんの家に遊びに行く時には、いつもビクビクしたものであるが、それも、自分の我侭に、 強情な性格を、叔父さんに見ぬかれて居るからであって、怖いよといひながらも、やは り何となく叔父さんをなつかしんで居るやうであった。 |