鹿友会誌(抄) 「第二十七冊」 |
△關様を偲びて 櫻田舜天 關達三様は、鋼鉄のやうに堅い意志の所有者であったことは、一度同氏と会ったこと のある人はわかってる筈だ。鹿角郡役所に郡書記として居られた時代は、同僚達から 『頑達』さんと綽名をつけられてゐた。これはあまりに關さんが頑固であったからである。 然しこの頑固は、世間の人のやうな頑固と違って、關さんのは、すべて分ってのことで、 その意味が違ふ。本人も、これは自分の意志の堅いことを表象するのだと喜んで居た。 關さんは性来、透徹した頭脳の人で、何事にもよく精通してゐるので、殊に科学的方面の 詳しい人であった。郡衙にゐた時は、所内随一の理屈屋で、すべての事に法理論を引き出すので、 皆から「法学通論博士」などゝ称号を奉ったこともあった。 郡衙にゐた時に、關様の発企で、役人が町村に出張して、講演をやれないやうでは、 民衆を指導する資格なしといふので、修養会といふものを設立して、毎週一回楼上で五分間演説を やったことがある。その時などは、自分が日頃集めてゐた材料を提供して、毎回雄弁を振はれて、 自分の新しい意見をはかれたものであった。達三さんは、若い青年を愛さるゝ人で、給仕や そのほかの連中には、その前途の希望については、心から指導誘掖されて尽してくれる人 であった。 鹿角郡が近年納税の成績が秋田県内に於て、第一二位を占めるに至った基調はどこに あるかと言へば、達三さんが時の河野郡長に献策して、郡内に納税組合を設立して、一面、 納税思想の鼓吹につとめた結果であると思ふ。これは全く達三さんの努力による結果である。 達三さんは、演説も上手であったし、又在郷の"あっぱ"や親爺を相手に話する事も上手であった。 納税組合設立に当って、其の趣旨の宣伝のため、津々浦々まで自身が出張して、 不尠苦心されたやうだった。 これが今日、鹿角郡の納税の成績のよくなった由来であると思ふ。 郡役所で何か会議を開く都度、必ず料理やで宴会をやる例であったが、關さんはいつも此のやうな 酒のみ会に参加したことを見たことがなかった。あとで聞くと、当時關さんは、花輪に居るうちは 絶対料理やへ足を入れない主義であった。所謂待合政治的情実に捉はれることを嫌ひなのであったと思ふ。 花輪で關さんが料理屋へ行ったことがあると思ふ人は、一人もない筈だと僕は断言する。 然し關さんは、女は嫌ひな訳でなし、又酒を飲めない訳でもない、曰く、その理由はわからない。 毎年正月元旦には、達三さんの御宅に招かれて、所員一同、郡長から普通のお役人さんや給仕小使まで、 御馳走になったものだ。その時などは、普段料理屋へも行かない人が、自分が先になって酒を飲んで、 人に強ゆるやら、唄をやるやら、踊をやるやら、その多芸なのには驚かされたことがある。 然し達三さんは、花輪では料理屋出入禁止主義だあったが、あれで仲々の粋人だとの噂話も聞いた事がある。 郡から県に僅か一年余にして内務省に栄転、内務省監察官付となられた。 そして、あの明晰な頭脳と才幹を以って、各府県の監査事務に当られたが、直ちに其の監査のやり振りが時の 某官に認められて、後藤市長が東京市長に就任すると間もなく、市役所に監査課が新に設けられて、 東京市主事となり、監査課長になられたのである。 内務省から東京市に転任する前に、某県郡長や満鉄や其他の方面から引張タコのやうに交渉を うけたそうだが、關さんには、あの伏魔殿の称のある市役所に這入って、乱脈極まりなき市政の監査を徹底的に 執行し、大東京市の面目を改めんとの、うつぼつたる野心を抱き居ったのである。今や大東京市の新庁舎も 近く大手町の一角に空高く聳えんとする時機に、不幸病魔におそはれ、大正十四年二月廿五日その熱愛する 花輪に於て眠られたことは、何たる薄幸の運命であったか。 |