鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△石田君を追懐す   青山芳得
 明治十九年頃、石田君と内田清太郎君は、虎の門工部大学に在学せられ、私と石川壽 次郎君は海軍兵学校にあり。当時石田君の御宅は駿河台の旧大名屋敷にて、堂々たるも のであった。(当時君の岳父英吉翁は元老院議官として世に時めきし頃なり)或日、余 と石川君と同邸を御訪問した。御家族始め家職の方々まで甚だ御丁寧で、野人礼に習は ざる吾々は甚だ恐縮し、御馳走の味も分らず、無我夢中に御暇した。其後石田君に此事 を御話したら、宅にては御互に窮屈にて、足を延ばして快談も出来ないから、日曜日に 学校に尋ねて来て呉れ、何処か静な処でゆっくり話さうではないかと発議され、以来余 等は、大概日曜日には工部大学に御訪ねして、内田君と四人で、或は隅田川に「ボート 」を浮べて言問団子をほうばり、或は上野の茶店に渋茶を啜って一日を過ごした。之が 恐らく鹿友会の前身であったと思ふ。其当時、一定の会費とてはなく、各自の「ボッケ ット」を投り出し、不足は大概石田君の出資であった。其当時より今日に至るまで、石 田君は依然として鹿友会の大資本家であったことは、深く感謝する次第である。
 
 明治三十六年頃、石田君の大阪製煉所長時代、余は軍艦富士の水雷長として同艦は大 阪湾に停泊したことがある。同艦は英国議会にて軍艦製造費が否決せられ、明治大帝の 聖慮に依り、御手元金の御下賜と官吏俸給の寄附金とにて出来た由緒があり、且つ当時 東洋一の堅艦として有名であったから、余は石田君御家族一同を招待した。君は二令嬢 を同伴来艦せられ、士官室に於て、士官一同と昼食を共にせられた。当時日露の国交日 に険悪を加へ、国論沸騰、艦内も何となく殺風景であったが、当日石田二令嬢の来艦は 、所謂満緑叢中紅一点で、艦長も春風荒野を吹くの感があると微笑せられ、之が先例と なって、屡々知友家族の招待が行はれた。箇様な事が海軍と国民との触接となり、後日 日露開戦中、国民後援の一因となったと思ふ。
 
 世界大戦の影響を受け、我国も大景気となり、大小の成金続出し、冠婚葬祭の費に万 金を投じ、驕奢の俗一世を風靡した時、恰も石田君は某高官家族の葬儀に会葬した感想 を話された事がある。元来官吏は国民の模範たるべきものであるに拘らず、斯の如き華 美な葬儀をするから、金のあるものは競うて之を真似る、又金のないものは反抗心を起 し、引いて思想上に及ぼす影響少からぬものがある。又香奠も主人の葬儀よりも、家族 の葬儀に多く集まると云ふに至ては、世道人心の頽廃も極まれりである。余は此意味に 於て、金のある処には香奠を少く、金のない処には多く出して居ると言はれた。君の社 会観は時弊を達観したものだと敬服したことである。
 
 大正十三年頃、君は後進の就職に関し、大雨を冒して目黒の拙宅に来訪せられた。当 時各学校卒業期であって、鹿友会学生諸氏の就職に付き心配せられ、秘かに各方面を物 色せられたとのことを聞き、後進に厚きに感謝したことであった。之が最後の御面会と ならうとは夢想だにもせず、再会を約して御別れしたが、今更当時を追想すれば、断腸 の思ひがある。
 
 要するに君は、余が交友中、稀に見る君士人で、位置あり、財産あり、而も自然に備 はる謙譲の徳は、老若男女の別なく等しく悦服せしめた。其高風今尚眼前に彷彿たるも のがある。
 君の訃音に接した時、恰も余は妻の父と、余の母との喪中にありて、御遺族に対して 只一片の弔詞を呈せしのみにて、何等弔慰を表することが出来なかった事を今尚残念に 思ふ。此場合に於て謹んで君の善霊に御詫をする。
(大正十四年五月十日)

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