鹿友会誌を紐とく 第二十四冊(大正12.6) |
△「鹿角もまた 巻頭言」 夏の一日、私は愛友団の諸子と一緒に、五の宮登山を企てゝ、一夜をお薬師堂に明か したことがある。菊皿に紅を溶かしたやうな夕焼けを眺めて明日の日和を喜んだ私達は、 やがて蒼茫たる月光下に谷内川が銀蛇のやうに光ってゐるのを見て胸を躍らさざるを得 なかった。 翌くる朝、私達はあの老松の傍に立って我が愛すべき鹿角を俯瞰してゐた。そこには 暁霧が濃く下りて、古 − 男神女神(おがみめがみ)の一角が崩壊して、あとに米代川 を残したであらうその時迄 − 漫々と湛へたりし湖水の如く見えるのであった。 霧は漸く霽れて行った。私達は眼下に大日堂の萱葺屋根を見た。杉の老樹を見た。大 公孫樹を見た。そして、これらに絡まる口碑伝説と、少し許り残ってゐる記録とを通し て、一千五百年前の王朝時代の鹿角を思ひ泛べることができた。 王朝時代から封建時代へ、鹿角の人が「時の流」によって導かれたやうに、私達の眼 は大日堂から転じて花輪の城趾に導かれた。いふまでもなく封建時代の遺跡である。嘗 て城主は威風豪然として鹿角二万石に臨んだのであった。 − が「時の流」は又しても 鹿角を駆って封建制度から資本主義の世の中に移らしめずばやまなかった。何といぢら しくも鹿角の人は「時の流」に逆らって、維新の戦役に戦ったことであらう。去り乍ら、 楢山佐渡の聡明を以てしても、桂勘七郎の豪勇を以てしても「時の流」を逆しまに奔ら しめることはできなかった。 霧のすっかり霽れた。私達の眼下には南鹿一帯が縮図の如く横たはった。米代川の本 流は谷内川夜明島川の水を入れて北に走った。流れに沿うて細長く青田が連なり、青田 をはさんで彼方此方に人家があった。その青田は凡て少数の地主の持物であり、その人 家の大部分には小作人が住んでゐた。私は眼を上げて尾去澤鉱山を見た。すっかり禿げ た長嶺(ながね)には曾てありし松林も枯れ果てゝしまった。鉱毒を流す米代川には滅 切り雑魚が減って来た。樹木や雑魚と諸共に人間も枯れて行くのぢゃあるまいか。坑 (しき)の奥、地の底に鶴嘴振ふ坑夫は呻く。不景気風が吹く時には文字通りの凄惨な 首斬りが行はれる。遠い都の高楼で緑酒を酌まむ此山の持主は知るや知らずや。何故な らばその人は、恐らく何年に一度しか此山へ来ないであらう。 鹿角もまた − 改めて言ふまでもなく − 他の凡ての土地と同じく「時の流」、換言 すれば生産力の発達程度に応じて、必ず経過すべき時代時代を通って来た。そして現在 も − 他の凡ての土地と同じく − 資本主義的経済組織に支配せられてゐる。然るに世 界は今や動いてゆく。新時代へと動いてゆく。科学的の必然さを以て動いて行く。人類 が退歩滅亡を望まぬ限り、絶間なく正確に動いてゆくであらう。そして鹿角も亦 − そ れを好むと好まぬとを問はず − 「時の流」に逆らって独り止まることができないであ らう。(K) △「金山節に就いて(労資問題) 月居哲嶺」 ……金山節を解説、非常に興味深く解説、隣保共楽共栄の真情は、何んたる美風良俗であ るよ。この真善美の下に共産主義は、勢力を逞しくする力はあるのか。個人主義は台 頭の余地があるのか。金山節は勿論、物質讃歎の歌とも見られよう。乍併マルクスとか、 唯物論とかのではない。 金山節に新生命の将来を祈りたい…… △「桃太郎と西遊記(新童話) 佐々木彦一郎」 ……桃太郎は、西遊記の日本化したものである論述を長々と述べてある。古事記や朝廷行 事、追儺(ついな、鬼やらひ)の桃に関わる記述、それぞれお供の記述、鬼ケ島の事、 玄奘三蔵の事、更には道中の事等々かなりの長論文、大変楽しい…… △「大日堂並に奥の院五の宮大権現略縁起」 別掲本文参照 △本会記事 大正十一年八月十九日、花輪町公会堂で演説会と音楽会を催した記述、弁士九名、音 楽は女声三部合唱・混声四部合唱五人、バイオリン川村四郎氏、独唱等。 聴衆約三百。 △例会 第二百二十例会兼川村竹治満鉄社長栄転祝賀会、五十四名出席 △会員名簿(大正十二年)賛成員三十三名、 正員、東京及近県百二十五名・郷里百六名・地方百十一名 △新刊紹介 青年の鹿角(花輪)月二回発行、一ケ月拾銭 愛友(愛友団機関誌)年二、三回、一部二十銭 暁星(花輪純文芸月刊誌)一部拾銭 ほそぬの(毛馬内 〃)隔月発行、年一円五十銭 奔流(大湯文芸機関誌)非売品 △広告九社 △鹿角郡より郡有財産六百円を鹿友会に下附 |