鹿友会誌(抄)
「第二十一冊」
 
△亡友追悼録
○幼年校時代の小田島義六さん   山水生
 「S様、小さい兵隊様が見えましたよ」
と、当時仙台の寮に居った私を、賄の婆様が呼ぶのであった。仙台の地方幼年学校に入 学した義六様は、短い剣をつけて玄関でにこにこして居た、殆んど毎日曜の様に、学校で 配付された弁当や菓子や果物等を風呂敷に包んで来ては、私の部屋で食った。時には階 下の新聞室で永々と色々の新聞を見て来て、一時間位昼寝して「学校の風呂は一年生の 入る頃には、大分汚れてる」と云ふので、同県人の佐々君と二人で寮の湯に入って行く こともあった。
 
 義六様が入学した年には、秋田県から二人限りであった、即ちその一人は由利郡から の佐々君であった、二人は平常、行動を共にして居た、日曜の課題の写生をして来たと て、午後になってから来ることもあった、佐々君は絵は上手だった、そのことを義六様 はよく賞めてゐた。
 義六様は独逸語班だった、私の所へ来ては復習して、独逸語は難いと云ってた、然し 一年目の夏休みの時には、私等が暗号のつもりで独逸語で言ふと、大凡の見当はつけら れる様だった、それが私には何となく嬉しかった。
 
 入学した年の冬休みが近づいた、義六様には始めての休暇なのだ、軍服を着て、所謂 小さい兵隊様として帰郷するプライドが胸の中に湧いた、然るにその頃から起った痔疾 のために、衛戌病院に入院しなければならなくなった。切角の期待もすっかり破れて、 淋しい微笑をたたへて寝台に横になってた。
 正月になって学校が始まってからも、暫く顔色が悪くて、体操も休んでゐるが、『結 局薬でいゝ』等と負け惜しみを云ってた、
 夏休みはどんなに嬉しかったかわからんが、何にと云って、別に顔へ出さぬ方だった 。
 
 その後私も東京に来ることゝなって、仙台の生活は知らぬが、冬休みに東京見物に出 て来て、二三日一緒に歩いたが、仙台にも大分なれて面白くなったらしかった。
 「義六様が痔が悪くて家へ帰へってるそうだ」と聞いたのは、それから間もない後だ った。やっぱり痔が癒りきらなかったのかと、非常に気の毒に感ぜられた。それからは 私のせいか、会っても何となく淋しい様な感じばかり与へられた、所謂蔭が薄かったと でも云ひませうか。
 遂々一昨年の流行感冒の犠牲者の一人となりました。
 義六様は兄弟は随分沢山あるが、むっちりとして、一寸変った方だった、その辺の気 性が長兄の信一郎様に大変可愛がられて居た、それだけ信一郎様の落胆は大きかった。
 極く短い言葉で義六様の去りとあとを懐ひ、筆を止む。

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