鹿友会誌(抄)
「第二十一冊」
 
△亡友追悼録「小泉政吉君」
○M君の死   在米国加州 川村直哉
 私が米国に渡ることなしに、今まで故郷に居りましたならば、私はこの文を書く私で ないと存じます。私が先年帰郷中に、いろいろとそんな事を感じました。此の国(米国 )では、どんな処を夜あるいても、淋しいとか、恐ろしいと思ふ事はありません。日本 では、木でも石でも私をこわがらせます。寝て起きて、喰して働くだけが生活な私は、 人の死後の霊といふ事を伝説的に考へるより前に、明日を考へ昨年を思うて、失望とい ふ事を忘れて希望を追ひかけるのです。少し知られた人の葬式のためには、殆ど凡ての 官庁が半日位休んで野送りする故郷にある人と、今まで煙草を分けて呑んで居た友が自 分の側で斃れたのを只「斃れた」と意識を残したばっかしで前進する職場の人との心中 、どちらに真実があると御考へなさいますか、後者の友を見捨てゝ行くのを不人情だと 御考へなさいませんでしたなら、M君が喀血してから四五日目の朝にBといふ町を汽車 で通り過ぎて、桑港に出て、やうやく夕方、病人の側に行った私の書くことを不人情だ と思はないでください。
 
 『やられたよ、……』
M君が左様いうて涙を流して居るのに、
 『ふん……』
と、鼻であいさつして、
 『やられたといふ事があるもんか、死んだっていゝじゃないか、どうせ人間は一度は 死ぬんだもの、生まれて来た大切な命を、目的もなしに死ぬのも一生だし、目的を持って 努力して、成功する人と成功しないでも、死ぬ人とあったにした処で、それは大方 天文よりも境遇だ、僕だってこんな風に無理な労働したりして、何時死ぬか分らないけ れ共、死ぬまで目的に向って努力して居たと思ったら、それで人間が沢山じゃないか』
 こんな理屈を、弱ってる病人に云って聞かせる私は不人情だと御考へなさいますか、 病院に行く道傍の菊の花を二つ摘んで、病人の枕元のテーブルに置きました。それが私 が持って行った見舞の総べてゞした。
 
 『まだ居たのか?……』
 とろとろと暫しのまどろみから醒めたM君は、ものも云はずに、さうした病人ばっか し居る室に坐って居る私に斯ういった時に、矢張り鼻で「ふゝん」と云って、
 『それじゃ帰るよ、一生懸命快くなるやうにするさ』
 
 さう云って病院を出て、桑港に出て活動写真を観たりして、私は田舎に帰ったのでし た。それはM君が快くなると云ふ事よりも、死ぬる方が近かったのを知りながらでした 。M君の為に私は一厘も消費しませんでした。死んだ時にも行きませんでした。御金も 送りませんでした。私はM君と左様して別れたのです。 (中略)
 
 私は貴姉に、M君の病床での出来事を御伝へ致しませんでした。私は御話する必要は ないと思ひます。そして当分は、御話しないと思ひます。死んで行った人の、既に過ぎ 去ったいろいろの事情は、それは只追想して、これを悲しみの原とするばっかしでは、生 きて未来のために現在を努力すべき人のために、何もならない事だと思ひます。永い間 外国に住んで、金銭のために苦しみ苦しんだ末は病気になり、故国に帰らうとして半途 まで来て、他人の世話になり、公立病院の冷たい床上に死んだM君の死に方を聞いて、 涙を流したばっかりで、M君は少しも喜びはしないと思ひます。M君は目的のために自 ら苦しい道を選びました。かうした生存競争の激しい国で生活しながら、専門の研究を 進める事は、苦しい思ひながら、時には愛する女さへも忘れて、只専心進みたいと思う たりしながら、世間の義理の間に、精神を痛ませながら、尚ほ死ぬ近くまで、その目的 の進行を考へて居ったのです。M君は、死ぬ時の苦痛を泣いて貰ふよりは、死ぬまでの 苦痛を考へて貰ふ事を喜ぶに違ひないと、私は思ふのです。そして誰かしら、その奮闘 的精神を受けついで、その人の行路に猛進して行く人があったなら、どんなに喜ぶだら うかと思ひます。その時に、そこにM君の死が意味があるものとなって残るものだと、 私は思ふのです。(下略)

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