鹿友会誌(抄)
「第二十冊」
 
△戊辰戦役忠死者五十祭
 昨大正六年は、恰も明治戊辰戦役五十年に相当するより、各地方に於てそれぞれ記念 の祭典、追悼の法要等行はれたるが、我が郡にては昨年九月二十九日、即ち秋田藩討伐 の日を以て、当時征討軍先鋒隊(鹿角勢)指揮官たりし楢山佐渡殿の墳墓ある花輪町長年寺に 於て、戦死者四十二名の為に忠魂追弔祭を執行されたり、
 発起人は旧花輪領主たる南部康保氏を始め、当時の出征軍人たりし村山義和、小田島 由義、藏善次郎、石木田小太郎の諸氏なり、
 
 生憎の雨天にも拘らず、遺族戦友等の参会する者数百名、勤行の後、発起人総代小田 島由義翁及軍人分会長の祭文・弔文朗読あり、又旧藩主南部伯爵家よりは、特に家職服部 氏を差遣して香華の料を賜はり、霊前に下の祭文を捧げしめらる、花輪青年会員の一団 も亦参拝し、頗る荘厳を極めたり、
 死者の霊、以て瞑すべく、唯吾人は此弔慰霊祭が他諸藩に於けるものとは大に其の意義 を異にせるものありし一事を特筆し置かんとす。
 
  祭文
 惟ふに戊辰の事変たる、内外多端、人心疑惧、相互意思阻隔し、彼我誤解百出し、為 に同胞意見を異にし、干戈東西に分るゝに至る、然りと雖も其の尊皇憂国の精神に於て 、両者未だ嘗て軒輊する所あらざるは、言を俟たず、
 茲に鹿角郡花輪町有志相謀り、戊辰殉難四十二子の為に五十年祭を行ふ、善い哉此の 挙、諸子の霊、また其の厚誼に感ずべく、顧みれば我が祖父利剛、曾て恭くも、
 
 孝明天皇の聖勅を奉じ、赤誠を捧げて、禁中を衛護し、任を了へて、天盃恩賜の寵眷 を蒙り、一藩士庶また深く尊皇の大義を重んじ、夙に憂国の丹心を持せり、諸子の難に 殉する、則ち尊皇愛国の至誠の発露に外ならざるなり、而して其の勇奮壮烈、武人の面 目を完了せるは、永く国民の典型たらずんばあらず、諸子逝いて爰に五十年、
 
 聖徳浩々、宇内に洽く、国威烈々、海外に加はる、皇運の隆昌、国勢の進展、古来未 だ嘗て有らざる所、諸子の意志、また与に酬いたりと謂ふべし、諸子それ瞑すべきなり 、
 今日此の祭典に会し、当時の事情と諸子の苦衷とを追想し、感慨禁ずる能はざるもの あり、一言弔意を表す。
  大正六年九月二十四日
        従四位伯爵 南部利淳
 
  ○
 維時大正六年九月二十四日、由義等同志相謀り、恭しく清酒庶羞の奠を備へ、以て戊 辰之役殉難者諸君の霊を祭る、回顧すれば諸君、身を捨て命を致し、忠君の大義を全う して、世を辞せられたるより、烏兎匆々五十年を経たり、今に於て当時の現状を尋思す るも、洸として総て夢の如し、然りと雖も諸君が砲煙弾雨の間に奔走し、奮戦健闘、遂 に死尸を原野に横へたる義烈を追懐すれば、宛然として今猶目睫の間に在り、其忠を感 じ、其義を慕ふの情、日一日より切にして、夢寐も忘るゝ能はざる所なりとす、
 
 本年五十回の忌辰に会し、弔祭の設計を画策せるに、人心の帰向する所、有志忽ち応 じ、準備立処に成る、加之競うて資を投じ労を執り、以て今日の盛典を挙ぐるに至る、 嗚呼諸君の誠忠義烈、深く人心の感動するに非ずんば、豈能く茲に至るを得んや、
 諺に曰く、人は死して名を止むると、諸君の死、固より悲しむべしと雖も、其芳名を 千歳に伝ふるに至ては、死して猶余栄ありと云ふべきなり、希くば忠魂、深く之を諒し 、聊か霊意を慰められんことを、尚くは饗けよ。
  大正六年九月二十四日
     戊辰忠死者弔祭発起人総代 従六位勲六等 小田島由義

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