鹿友会誌を紐とく 第十五冊(大正元.12) |
△鹿友会例会沿革誌(別掲) △記念会「開会の辞 東京 湯瀬禮太郎」(別掲) 我鹿友会の三人の神様 − その後神様の子孫、二百八名 昔は学生のみ、中頃はコブ付き家庭持ち、近頃は第二の会員、即ち子供が、 第三会員、即ち孫たちがあらわれようとしている。 △記念会「所感と希望 青山芳得」(別掲) 創立以来の会員、明治十七年上京 今後どれくらい発達するか分からないが、この精神で鹿角全体の風教を維持して行けば、 一県に及ぶかもしれない。 東北人は引込主義である。今後は、老人も婦人も子供達もこの会に出席して欲しい。 △創立第二十五周年記念会出席五十六名、祝電八名 △「青年諸君の反省を求む 毛馬内 立山弟四郎」 (要旨)鹿角の人はやゝもすると秋田を嫌い、盛岡を有難がる傾向がある、旧藩の縁故はどう しようもないが、秋田嫌いでいいのであろうか。 いつまでもすねていると、親の心も変わってしまう。秋田の親しみやすいところや、 学ぶべき美点を見出し、同化したらよい。毛嫌いしていては、後世の為によくない。 △「奨学金問題 中島織之助」 基金制度にて早く実行を呼びかける。 △「花輪だより 花輪 栗の木生」 (要旨)郷社稲荷神社の祭典は、御大葬後の九月十三日に延期して三日間行った。町 では大分火を焚いて景気よくやった。長年寺角では踊りはあった。踊り手のせめてもの 気晴らしだったろう。何しろ花輪では盆と云えば御霊を弔うより、郷社の祭典で陽気に 騒ぐを意味してるらしいと言ってた人があった。 △佐藤良太郎追悼付記 △花輪の大きい方(オッキカダ、佐藤良太郎追悼付記) 上の村六 小上清水(コガミシズ) 小又 舘の中野さん 横丁の村山 袋町吉田 中小路の佐しん(佐藤良太郎家) △大正元年賛成員三十名、 在郷会員七十五名・地方会員六十名・在京会員五十名(学生十六名) |