鹿友会誌(抄) 「第十二冊」 |
△史伝逸事 ○神に祀られたる和井内夫人かつ子 左の一篇は、「神に祀られし婦人」と題し、雑誌『婦人世界』第四巻第七号に掲載さ れたものです。和井内氏が十和田湖養魚事業を企て、多年苦心惨憺の結果、遂に今日の 成功を見るに到ったことは、既に世に隠れなき事実であって、其の功労に対し先年、勅 定の紅綬章を賜はられた事であるが、氏をして今日あるに到らしめたるかつ子夫人の内 助の功、並に其の慈善的行為に付いては、恐らく知る人が多くあるまいと思ふがから、 茲に全文を転載することに致しました。(編者識) 秋田県鹿角郡の十和田湖といへば、周囲七里余の大きな湖ですが、一昨年の八月(明 治四十年)、この湖の傍らに、勝漁神社といふ社が建立になりました。 勝漁神社は、十和田湖の近辺に住む人たちが集って建立したものですが、実は一婦人 の徳を表彰し、その恩を記念する為に、これを神に祀ったのださうです。 神に祀られた婦人とは、如何なる人ぞ。 その名は 和井内かつ子 、文久三年三月十日の生れで、明治十一年旧一月、和井内貞行 氏に嫁ぎました。家に在ってはよく良人に仕へ、舅姑に孝養をつくしましたから、家内は 人も羨むばかり円満に治り、近隣の者の評判であったさうです。 その頃、良人貞行氏は、十和田湖に養魚を思ひ立たれ、一家を挙げて十和田湖畔に 住居されることになりました。 かつ子は、湖辺居住者の貧困なるものに常に慈善を施し、その篤行を新聞紙上に称へ られたことも、一度や二度では無かったさうです。 その頃、湖畔の地味が非常に悪くなって、米も出来なくなり、野菜もできなくなった ので、開墾に従事する五十戸二百余の農民は、今日明日の食物にも不自由するやうにな りました。 かつ子は、これを見て非常に気の毒に思ひ、盛んに農民に向って漁業を勧めました。 食ふに米なく着るに衣なく、天に訴へ地に悲しんで、今は悉く他郷に去らねばならぬ と決心した農民どもは、この勧めを天来の福音と聞いて、鍬を捨て鎌を抛ち、一意専心 、漁業に従事することゝなりました。 けれども、貧窮な農民のことですから、勿論船を持つ者はなし、甚だしいのに至って は、弁当の飯さへ無いと云ふ者もあったさうです。 かつ子は、船の無い者には船を貸し、弁当を与へ、尚ほ漁業の道具などは悉く貸して やりました。それから夜泊るに家なき者は、自分の家に泊らせてやりました。 これが為に湖畔に住む農民などは、悉く蘇生の思ひをしたというて、感泣してゐたさ うです。 かくの如く、近隣に慈善を施す傍ら、家にあっては幼ない子供の教育、年を老った舅 姑の世話まで、悉く一身に引受けて、何一つとして手落ちのない程よく働きました。 十和田湖には、元々一尾も魚が無いので有名だったのですが、貞行氏夫妻の苦心経営 に依って、近頃ではいろいろの魚が殖えて、東京あたりへも大分売出すやうになり、今 では湖畔の人は一体に行行を主として、農業は副業になってしまひました。 昨日まで赤貧洗ふが如くであった住民も、今は非常に富裕となり、皆、かつ子の徳を 称へてゐるさうです。 それに、かつ子は養牛を奨励して、これまた少からざる効果を収めました。 明治四十年三月、かつ子は急激なリウマチスを病んで亡くなりました。 湖畔一帯の住民は、かつ子の死を聞いて憂ひ悲しみ、神葬を以て厚く葬りましたが、 彼等の今日あるは、全くこの婦人の賜物であるというて、一昨年遂にこれを神に祀り、 その名も勝漁神社とて、近村よりの参詣者引きも切らぬといふことです。 |