中央へ登壇した毛馬内の俳人。 参考(出典):「鹿角市史」
鹿角の俳人が中央の俳諧集に名を現すのは、寛政の初め馬渕里夕をもって嚆矢とする。 「鹿角俳諧・俳句史抄」によると、寛政三年(1791)盛岡の志雪窓三白が上梓した芭蕉 百回忌の「はすのくき」に次の句が入っている。 うめさきて寺に米搗くおとこかな 毛馬内 里夕 また同五年盛岡の平野平角刊行の同じく芭蕉百回忌の「無功徳」には、毛馬内の 里夕・可交・北川の三人が名を連ねている。この年子日庵一草(南部黒沢尻出身)が 江戸で刊行した「潮来集」に里夕・可交の二人が入集している。 朴の若葉雨聞くほどに成りにけり 可交 …… 参考(出典):「十和田町の先輩」
貫右エ門は里夕と号し、俳諧をよくし、平生客を愛し、門をたたくものあれば喜んでこれを迎え、 遠客など数日にわたって厚くもてなした。文化文政のころは、鹿角第一の俳人といわれ、 文人墨客あとを絶たず。それらの詩歌、書画の書画帳は有名であった。 鎌田蕗谷はその門人である。また、庭園作りを好み多くの奇石を集め松樹を植えて松林亭と名づけた。 今は本田医院となり、毛馬内名園の一つに数えられている。 |