GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

プール神父

 愛農勤労教育をモットーとした青年中等教育のために、慈栄私塾を創設。

参考(出典):「鹿角のあゆみ」
 
 毛馬内カトリック教会にはローゼン神父の後任として、ウィルヘルム・プール神父が 大正十三年(1924)八月に赴任し、昭和二十年(1945)終戦の年まで、この経営に当った。
 「プールさん」の名は、郡内に親しまれ、残された足跡も大きいものがある。即ち昭和 二年(1927)には県から幼稚園の認可を正式に得、同六年に現在地に移転、翌年には 教会も移した。
 
 また昭和七年(1932)四月には郡内教育の先輩である高橋克三等と計り、愛農勤労教育 をモットーとした青年中等教育のために、慈栄私塾を創設し、郡内勤労者に語学並びに 一般教養を施した。

参考(出典):「十和田町の先輩」
 
− 異色り慈栄私塾長 −
 ことしは、教育制度が布かれてから、百年目に当る。この時にあたって秋田県教育百年史の一隅を照らす、 プール神父の慈栄私塾のことが回顧される。 昭和八年七月に秋田魁新報が「今に日本教育の覚醒時代が来る、独人プール氏の私塾」と題して掲載されたことがある。
 また昭和十三年五月二日、秋田県教育会長井上広居の名において、プール神父に対して県教育功労者として、 表彰状と共に記念品を贈ったこともある。
 
 プール神父は明治二十三年十月二十六日、ドイツに生まれ、大学で哲学及び神学を学び業成るや、 日本の伝道に志し、大正十年一月カトリック司祭として、我が国に来朝した。 大正十三年毛馬内に来住して、教会を設立すると共に、この地が絶好の教育地たることに着眼した。 同十三年九月、私立毛馬内幼稚園を創設して、自ら園長となり、多数幼児の保育につとめ、 今日に至るまで四十九年間続いている。
 
 昭和七年四月、慈栄私塾を開いて、塾長となり、資力がなくて中等教育を受けられない有為の子弟を収容し、 独特な施設を以てよく短期間に中等学校卒業以上の教養を身につけさせた。とくに英語、独逸語の力は非凡であった。 この頃は世界的不況が日本におそい、金解禁後の農村の疲弊が甚しかった。中等教育はおろか、 中学校の中途退学者が続出する有様であった。神父はこの時こそ教育が必要であると、 敢然としてこの企画にとりかかったのである。 この私塾は戦前まで続いて、社会有用の材を排出している。
 
 思うに日常忙しい伝道の余暇をさき、かつ私財を投じて多年にわたって倦まないその態度は、 みな神父の至誠献身の賜物で、県教育会がこの業蹟に対して、感謝の意を表したのは、むしろ当然のことであった。
 
 松岡誠人の手記の中に「わたくしが毛馬内の教会を訪れたのは昭和十六年の秋のことであった。 毛馬内についてまず驚いたことは、行き交う多くの人々が、神父さまに会釈(えしゃく)するし、 神父さまが、バスに乗ると車掌は、料金をとらない。連れの私の分までとらないのである。 日本全国でほかにこんなところがどこにあるだろうか」と述べている。
 
 プール神父は、来日五十年に及ぶが、その半ばは毛馬内に住まれたので、第二の故郷といってきた。 同窓会誌や、郷土の文献を送ると非常に喜ばれて、「昔のことが思い出され、やはり、毛馬内は故郷としての気持が 新たになります」とか、「私の故郷毛馬内のため、ご尽力下さるよう」とか、全く自分の故郷以上に親しみをもたれたようだ。
 
 今や神父は、よわい八十一歳、昨年ドイツで交通事故にあい、鹿角の知人はみな心配したが、 もはや回復されて、名古屋の恵方町の教会で活動を続けられている。何とぞ「君子万年の鶴寿」を祈って止まない次第である。 (老松庵識す)

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