急坂に迂回路をつくる。錦木。 参考(出典):「十和田町の先輩」
田口伝七郎は、明治七年六月一日錦木の浜田に生まれたが、早く盛岡に出て勉学し、若年にして市役所に勤め、 ついで岩手県庁に移り、土木課長を勤めた。この間、市役所に二十年、県庁に二十年勤めたことになる。 昭和十六年に定年で郷里に帰るや、おされて錦木産業組合長や農業会長を勤めた。当時根市戸の台地に浜田部落の 畑があったが、この台地に上る道は、馬道といって空の荷車を引くにも、容易でなかったので、その不便さを痛感し 坂道の改良に立ち向った。 その坂道を作るために、自分の土地を提供したり、他人の土地は買求めてこれを寄付したり、土地の交換をした。 かくて自分一人で測量して完成を見るに至った。その労苦は想像にあまりある。 伝七郎の人柄は、実直誠実で、盛岡県庁の土木課長時代に、知人に仕事を与えたが、測量に不正があったので、 工事のやり直しをさせた位、仕事には厳格であった。その反面よく酒を愛し、談論を好んで人の頼みをよく聞いてやり、 村の相談役として多くの人に慕われた。またこの家は、田口家の総本家であった。 彼は昭和十九年十二月四日、七十一歳で没したが、浜田部落の人たちは、その遺徳をしのび、昭和二十一年四月八日に 道路のそばに記念碑を建てた。それは彼が自ら測量して自ら監督して作った道路の右側にある小さな広場の真中に、 高さ三米程の碑である。碑面には、 「田口伝七郎翁之碑」 と書かれている。碑文は石田一学、石工は浜田出身の石川定司である。 浜田部落の中学生たちは、毎年碑のまわりを清掃し、部落ではリンゴの花の咲く頃に、総上げで彼の供養を 行なっている。 |