GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

高木新助

 クリスチャンで先覚者。

参考(出典):「十和田町の先輩」
 
 大湯大円寺裏の墓地を一巡するとき、誰も目につく墓標がある。磨かれた黒い御影石に深く刻み込まれた名句、 「天には栄光、地には平安」。なるほどとうなずかれる。これが高木新助の墓なのだ。
 
 新助は、流離の辛苦をなめた会津藩士の子孫である。鶴ケ城が焼け落ちたあの戊辰の役後、会津百万石の松平氏は、 奥州さいはての地、田名部三万石に左遷されたが、一望広漠たる不毛の原野、水を引く田畑を作る場所とてもない。 失望した会津藩士たちは、明日の生活を求めて、下北の地から思い思いに四散して、暫く三戸町に落ちついた。 明治五年二月一日、この三戸で新助は生まれたのである。父は他郷に居って夭死したので、祖父助三郎の手によって育てられた。
 
 新助は青年の頃、両親と共に、三戸から大湯に転住して商業を営み、又開墾して桑を植え養蚕に励むなど、 生計の安定につとめたが、岩やる士族の商法で長くは続かず、林業などいろいろ職を換えた。
 明治の晩年から大正、昭和と世相の変化の目まぐるしい時代に、新助は旧士族の出身だけに、心の持ち方の頗る堅い人であった。 決断も明快、そして識見も卓越して、当時の青年たちに、産業、経済、教育、政治など、新鮮な知識の教示を 怠らなかった。又ハリストス教を研鑽して、これを信仰し、俳人浅井小魚とは、共に啓発し合った友人同志である。
 
 十和田湖が、日本新三景及び十勝景や避暑地三景に上位当選したことは有名であるが、 「日本八景、十和田湖、本山彦一書」の碑が発荷峠に建設されたのは、新助の尽力によるものである。
 先覚者高木新助は、物事の判定には公平無私、信義を重んじ友情に厚い立派な指導者であった。 昭和二十三年六月二十一日永眠。七十六歳。

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