俳人。平成4年鹿角市文化功労者。
田原東太遺句集「木原の風」平成十年九月一日発行
題名の由来
昭和四十三年の作
まんさくに木原の風が唄ひ出す
田原東太俳句の歩み
高橋道人・鎌田亮編
昭和二十九年 肺結核で大館市立病院に入院中の弟昭二(鐘児)の影響で句作を
はじめる。時に三十八歳。四月、本人も肺結核で大館市立病院に入院、病院内の
「だるま句会」に参加。中川康多、松橋三歩路氏はこの頃の俳句仲間である。
三十年 二月、三月の二回、成形手術を経て肋骨七本切除。九月退院。
三十一年 六月、弟昭二没。八月俳句雑誌「野火」の会員となる。田原武で
投句。「だるま句会」の第二 年刊句集「年輪」に十五句発表。「野火」十月号の
「十句抄」にいきなり推薦される。十一月号より俳号「東太」を用いる。
三十七年 「野火」六月号の野火集で初巻頭「林の日芽吹のなかを彷徨す」等五句。同九
月号に随筆「八幡平」を執筆。
三十八年 「野火」二月号の野火集で巻頭「みそさざい影くりかへす日の泉」等
四句。
三十九年 「野火」六月号より「野火集寸評」担当。八月「みづうみ俳句会」結
成、会長に就任。
四十年 「野火」十月号談話室で「東太作品の場合」が掲載。
四十三年 一月「野火」同人に推薦される。
四十四年 「野火」四月号高橋道人、田原東太競詠「白鳥二題」発表。
四十五年 「野火」三月号から同人欄の「霜華集評」担当。
四十六年 「野火」三月号に随筆「うらなりリンゴ」執筆。同じく六月号の表紙
裏のグラビア「同人紹介」に登場。
四十七年 「芸文とわだ」に「森湖十の詩才」を執筆。
四十九年 四月「みづうみ俳句会」の句会報が、会誌「みづうみ」として発刊。
八月号から課題句の選を担当。
五十一年 「みづうみ」三月号より「俳句実作入門」連載執筆。
五十二年 一月「俳人協会員」に推薦させる。
五十三年 三月自然気胸にて入院、四月退院。「芸文かづの」に『「余生健在」
に寄せて』を執筆。
五十四年 十月鹿角市芸文協より「芸術文化功労者」として表彰される。同月鎌
田露山の句碑建立にみづうみ俳句会として尽力。
五十五年 「野火」一月号(四百号記念)に「みづうみ俳句会」を紹介する記事
を執筆。「ほむら」十二月号に「静の裏がわ」(高橋道人特別作品の鑑賞)を執筆。
五十六年 「野火」六月号春蝉集同人となる。
五十七年 「芸文かづの」に「さがしている眼」(鎌田露山人物論)を執筆。
五十八年 一月「ほむら」同人。三月随筆集「したもえ」(私家版)刊行。
六十一年 「野火」七月号より「野火集逍遙」連載執筆。八月号(篠田悌二郎
追悼号)に「思い出 − 十和田湖吟行のことなど」を執筆。
六十三年 「野火」三月号に随筆「北限の椿」執筆。十一月号「梅雨の津軽」二
十句発表。
平成元年 七月秋田県俳句懇話会より俳壇功績者として表彰される。「野火」七
月号に特別作品「冬の湖」二十句発表。
二年 鹿角市芸術文化協会会長に就任。
三年 「野火」八月号より「深海集」同人となる。
四年 鹿角市文化功労者として表彰される。
六年 「野火」十二月号より「松本進の世界」で主宰の作品二句を鑑賞連載。
八年 十月十日急逝。享年八十才。十月十六日「野火功労賞」受賞。
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