GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

瀬川三郎:P川三郎

 瀬川文庫の寄贈者。

参考(出典):「十和田町の先輩」
 
 十和田町大湯の出身。大正四年三月秋田師範を卒業して毛馬内、大湯や小坂の濁川小学校に在職した。 生来向学の志が強く、大正十年一家を上げて東京府に転住。小学校勤務のかたわら東洋大学で哲学の専攻に励み、 古代ギリシャ哲学の蘊奥を極めようとして、昭和八年から九年にかけてギリシャに遊学研鑽した。
 「少年の頃からギリシャの神々が私の心を捉えた。そして、西洋文化の原型としてのギリシャを学ぼうと 思い立ったのだ。西洋の学問と芸術とは、自然と人生に対するギリシャ人の感じ方、考え方が基調をなしているのだから、 その源流を探るためには、是非ともギリシャの生活を体験すべきである」という熱烈な意欲に燃えて、 一年有半の留学を決行したといっている。氏の外遊見聞は「ギリシャ風土と文化」という著書に残されている。
 
 帰国後、東京府豊島師範に教鞭をとり、停年にいたるまで、東京学芸大学教授として長年学生の教化訓陶に努められた 温厚篤学の士である。三郎は天性、真摯内剛外柔の努力家で、人情にも厚い立派な性格の人であった。
 不幸、病気のため昭和四十四年三月十日七十五歳で永眠されたが、遺骨は祖先墳墓の地大円寺に埋葬されている。
 
 氏は生前、常に郷里の学童の教育に心を寄せ、「郷土の子弟が勉学につとめて、強く逞しく成長してほしい」と念願して いたので、その遺志をうけついだキヨ子未亡人(大妻女子大講師)が金壱百万円を大湯小学校に寄贈された。
 大湯小学校(当時田村唯志校長)では早速瀬川文庫を設置し、また体位向上のため、校庭に遊具を備え付けたが、 文庫の本も運動遊具も、毎日子供らに嬉々として親しまれ、利用されていることは、まことに欣快の至りである。

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