毛馬内の俳匠。 参考(出典):「十和田町の先輩」
鎌田家は、祖先から商売を業としたが、文政十二年二月二十日に生れた蕗谷は幼少の頃から文墨をたしなみ、 商人とは交わらず士族や文人と交際した。滝麟趾(りんし)について俳諧を学び、また貫洞卓堂(かんどうたくどう) や於曽此一(おそしいち)に従学して学問が進んだので、その門に学ぶものが頗る多かった。 蕗谷の作風について、安藤和風はつぎのように述べている。 路谷は毛馬内の俳匠である。畏友内藤湖南や十湾両先生の縁故で、明治二十五年頃から未見の交わりをした。 蕗谷は老達なる匠師の身を以て、若輩後進の我に咏草の評閲を求められたりした。叟の俳風は寂しみと新しみに富み、 また句に実情のこもれる処がある。 春の海 日は一杯に 暮るるなり を初め、不朽に伝うべきものが多い。 と述べている。明治二十八年三月二日病のため没した。 |