GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

川口月嶺:川口清吉・七之助・有度・真象・午睡堂(庵)

 江戸深川の鈴木南嶺の門下で名を挙げた。
参考(出典):「鹿角のあゆみ」
 
 享和元年〜明治四年。花輪町仲町で生れ、同大町での麹屋を経て、花輪町や小坂で 洋品店を営んだと云い、鹿角第一の画家である。
 系列は大日本人名辞書、読史備要によれば円山派であるが、秋田の画人、及び秋田市 美術館で行われた花輪画人展では四条派に入れている。
 五才頃から早くも絵に執着し、八才で字を習い、点染描写を得意とした。十八才のとき 画家を志して放浪の旅に出て、江戸深川の鈴木南嶺の門下になった。
 江戸ではアンマ、筆耕、提灯の絵を描き苦学したが、数年で柴田南谷(横手出身)と 共に、南嶺門下の双璧と称された。
 その後諸国の旅に出、野州烏山城下(栃木県)に行った時、一老人に乞われて滞在し、 絵の求めに応じていたが、縁あってその娘静子と結婚、亀次郎(月村と号す)が生れた。
 
 故郷を出てから数十年、望郷の念にかられて弘化二年三十八才で花輪に帰った。この時 入門希望者が門に満ちたといわれ、この事が南部侯に聞え、招かれて禄を給せられ、盛岡 に住むようになったが、六十一才の生涯をここで終った。真象は藩公から贈られた雅号で ある。
 
 人物・花鳥・山水・草虫百般にわたってよく、その博識であること、領内の画壇に新風を 吹き込んだ画人として知られており、筆法雅建、設色清幽と評されている。
 平福穂庵もその指導を受け、百穂への手ほどきも月嶺の要領をもってしたと云われる。 穂庵が修業のため京都に上る時、盛岡を通っているが、友人に出した手紙に、「月嶺に 寄りかねた」とあるから、その間の消息も知られよう。
 門人も南部の人に多く、作品もまた多く盛岡にあるが、花輪、毛馬内にも多い。

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