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△加害者南部家へ対し被害怨仇を報ずるに努力す 惟ふに予は、既に現世文明に際会し、既往を回想するに、 汝の行為、天下に無類なるを知る。 汝は、家来の者に詞誓血判為さしめ、行為洩漏を厳禁し、然る上は、 親子兄弟たりとも他言為さしめず、万般至らざるの悪事を挙行し、文明の今日、 旧の如く行ふ能はず。 然るに予は視所、汝は頑として愧を知らず。 汝、破廉耻甚、人の済度に苦む。既に予と汝と事端を開き、予は頻りに文明を以て、 汝の自ら旧国主と自称し、陋愧尊大主義を構へて、国主然たる、 恰も相馬将門の如し。汝独り、尊大とするも、予は見に、盗賊と敵視する者に付、 毫も敬するの念無く、汝が土人と予を視るも、予は同一に眼下に視下し、 速かに汝が頑なる頭脳を懲らして、眼に物を見するに如かずとし、 汝、余りに尊大ふりして社会に汝、妖血本性知らしめ、愧を売る勿れ。 汝は、我等の首打切て殺して仕まへば、此の憂なかったと悔言吐きたる由。 果して汝の悔る所、文明の悔に非ず。 予は又、利剛も楢山佐渡同然死刑に処せられ、家名を全滅候に於て、予は今日、 汝を攻撃する者に非ず。 然らざれば、汝、恩典族籍返上するか、又は真実の血脈の者へ相渡候に於ては、 予は断じて攻撃を止むべし。 予は始め、獄に幽閉せられたる時は、利剛の首を得て、一と蹴り蹴て、仇念を晴らし度しと、 一時血熱を凝したれども、齢ひ重ぬるに従へ、精神を転じて、利剛の一命は長く生活せしめ、 天下の耻辱を報へんと欲す。 深く忍んで予が生命を保護し、而して冤罪放免の慶事を待て、 慶応元年正月、公然生地に帰村し、汝は予の元籍塗抹し、無籍人たるを僥倖とし、 長州下ノ関に至り、理由を述て、毛利家の兵士たらん事を欲す。 則慶応元年三月十八日未明丑の刻、生地を出発し、翌十九日羽州六郷に宿泊し、 徐々に進行するも、毛利家山口籠城中にて、 御領私領境なる関所番所改方身分目的等尋問厳重に付、 南部尾去沢又は阿仁銅山の坑夫なりと偽るも、予は素より身幹五尺六寸の人体にて、 小兵と云にも非ず。 土民にしても土百姓とも見えざるや。 私領境の番人等種々不審尋問に恐れありて、越後国新潟に滞足して、 新潟奉行馬部屋別当に依頼し、下別当奉公に力め、南部馬音改良に注意を凝らし、 新潟奉行榊原主計頭、注目して深く愛顧を蒙り、中小姓に昇り、 延て馬廻供頭納戸役に昇進して、幸に政府の法律を熟視し、雑務百般の調書に従事して、 内家の公用を担当し、江都に至り、而して永の暇を請て、 長崎奉行の試検を経由し、公用人に抱へられ、 奉行に随行して長崎に至り、密かに該地来集、勤王諸士の周旋に熱血尽力し、 鹿児島家老小松帯刀長崎留守居陰陽治郎衛門の厚意を以て、島津家召抱えの儀を承諾して、 長崎奉行へ永の暇を請求して、慶応三年七月江都に帰り、鹿児島に至らんと欲す。 神戸に着し、英蘭両国全権公使の教誡に因り、小松陰陽の二氏に謝断して、 兵庫北風荘右衛門方に配寓し、両公使の厚配辱ふし、外商に引合、貿易事業に従事して、 大阪横浜往復、大に商業利益を視るに至り、 勤王諸士運動費供給して、諸君の熱心に相副へ、之を予、本望とし、 英米仏国公使、及全権大使の依頼に応じて、諸般の探索を要し、外国士官の愛を厚くして、 貿易に従事し、兵庫に在て一の砲声を聞かず。 壬辰正月五日に遥かに大阪城の炎火を視る。 次に北風荘右衛門へ長州兵士の難問により、家宅捜索、土蔵封印、一の故障を起す。 予、之を勅使へ密告し、予の説明し、彼れ感じて了解し、該兵士、疑惑を晴らして去る。 依之、兵庫人民、大に鎮静に復したり。 |