幻の郷士・野尻左京
 
九、左京家後裔の人々
 野尻左京の後裔の本流は、小坂町三ケ田幸一郎家である。左京の子孫は、佐治兵衛、 左惣治、佐仲太、佐勇治、佐太八と続き現在に至っている。佐治兵衛も左京を襲名した らしく、その娘婿が阿部小助で、この子孫が尾去沢と岩手一の関の阿部家である。又三 ケ田の阿部左三郎家をはじめ、曙地区には数軒の分家が残っている。小坂の三ケ田家が 、阿部から三ケ田に改姓したのは次の事情によるものである。花輪の御与力に三ケ田和 吉郎という人がいた。和吉郎は寛保二年父和右ェ門から十一石を分地し与力となった人 であるが、どうした事か寛政十一年阿部家の過去帳に入って来ている。それ以来阿部家 は三ケ田と改姓している。これは阿部家で跡継ぎのない和吉郎の士族株と苗字を買いと ったのではないかと考えられる。小坂の三ケ田家に伝わる文書としては、寛保二年二月 久米之助から出された検地願、同年八月和吉郎与力就任に関する家老連署の被仰渡書、 知行小高帳、左勇治の弓術の免許状などがある。左勇治は若い頃は弓術をたしなみ、二 千五百本の通し矢をする程頑健であり数人の家来を連れ戌申の役に出陣した。
 
 戦後難病に悩まされ、日蓮宗に改宗し本勝寺の創建の先達をつとめている。本勝寺完 成の翌明治十三年一月病没し、同寺過去帳の筆頭に記載されている。尚本勝寺には野尻 家の古い位牌が安置されている。小坂へ居を移したのは、左勇治が知行を失い倒産した ためで、小坂三ケ田家の先々代佐太八の時である。
 
 左京家の墓は、野尻の左京屋敷の東端にあったが、明治十五年九月、地像尊一躰、墓 石六本を菩提寺へ移した。
 
 尾去沢と岩手一の関の阿部家も、左京家の分流である。通称佐治兵衛といわれた左京 の娘婿の後裔である。明和の頃、尾去沢銅山に一人の若者が流れて来た。何処の国の人 ともわからないが、小助といって鉱山の仕事に精通していた。御銅山召上後の山の目小 平治に残務整理に派遣されたのではないかと考えられる。小助は中々の人物で、見込ま れて左京の娘婿となった。安永五年二十五才の小助は、召し出されて狼倉(不老倉)鉱 山の外方床屋の主役となった。寛政六年狼倉は休山となり、小助は田山村へ隠棲してい たが、寛政十一年大阪廻銅増産のため、再び召し出されて御銅山に再出仕した。文化十 年小助正吉が死亡し、後妻の子権八は、二十才で父の跡をついで外方主役となった。三 代恭助は茂卿といって、永く床屋主役をつとめ、後昇進して山方となっている。鉱山改 革の功を認められて逸通と称することを許された。 恭助の書き残した日記 をはじめ諸 記録は、白根尾去沢銅山解明の貴重な資料として、麓三郎氏の尾去沢、白根鉱山史に多 く引用されている。
 
 四代佐太郎の代に家産がかたむき、長子守己は小坂へ去り、次子正己は、恭助の建て た軽井沢の隠居所に移った。守己の長子厚一氏は終戦後北上製紙会社をおこし、専務の 要職にあったが、最近後進の道を譲って監査役に退いている。正己の長子左一郎氏は、 長らく尾去沢鉱山につとめ、七十六才の高齢にもかかわらず、お元気で先祖以来の文書 の整理保存につとめていられる。

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