「鹿角」 |
△七 伝説の鹿角 <大日堂と吉祥院大銀杏の由来 附五の宮神社> ダンブリ長者の一女秀子、名を吉祥姫と改め、畏くも人皇二十七代継体天皇の恩寵を 忝うし、第五皇子までも挙げられ、栄華榮耀、意に満たざることが無かったけれども、 月日のあゆみに関守りなく、長者夫婦も寄る年波に、やがて彼の世の人となったのである、 長者の家産は遂に衰頽し、霊泉も亦かれて出でず、荒廃して殆んど昔日の面影が 消え失せたことを、遥か都に在って聞かれた吉祥姫は、大に歎き悲まれ、長者の跡を記して、 後の世に伝へんことを帝にお願ひせし処、早速御聴許あって、 「神は国の守り、永く後世に伝へ残さんとせば、神社を建つるに若くことが無からう」 との御仰せにて、善記二年勅使下降、小豆澤に社廟を建立し、かねて長者が尊崇して居った 大日霊貴神を祭り、郡中の鎮守となし、小豆澤、谷内、大里、長嶺、川部の五ケ村をもって、 社領と定められたのである、大日堂建立の源は、即ち是である。 後、いくばくもなくして吉祥姫も、遂に黄泉の旅に就かれた、臨終の時、遺言して曰く、 「妾のなきがらをば、必ず故郷の地に葬り玉はるべし」と、 依って、其の死骸を遥か都より運ばれ、大日堂の傍に埋め、当時墓印として都から携へた 銀杏の杖を立てたところが、夫が芽生えして、遂に今日の大銀杏となったと伝へて居る。 一説には吉祥姫、幼少の時より銀杏の木を愛好されたにより、之を墓標として其側に植ゑ たものとも云ふ、 銀杏の大樹、今尚ほ千幾百年の昔を偲ばしむべく、吉祥院の前に繁茂して居る、周囲三丈に 余り、郡内稀に見る所である、吉祥院は後の人、吉祥姫を弔ふべく建てた寺院である。 元正天皇の御宇、鹿角の郡司よりダンブリ長者の事歴や神社創立等のことを上奏した処が、 朝廷即ち霊泉の湧出せるは、神祇感応の徳によるべく、殊に神社は往時、勅旨により 建てられた所とすれば、宜しく之を修理すべきであると、乃ち勅使下降、同地に方九間の 一大堂宇を建て、之を大日堂と号し、音博士などを下向せしめ、大々的祭典を挙げ、祭式 舞楽の方式を定め、以て後世の恒式となされたのであった、同社に安置せる尊像は、 僧行基の彫刻せるものだといひ伝へられてゐる。 五の宮神社は、継体天皇第五の皇子を祭れる社であって、御名を莵皇子と申され、 吉祥姫の出であらせられる、 天皇崩御の後、佞者の讒する所となり、禍を避けて窃かに都を逃れ、四人の臣、安保、 秋本、奈良、成田の諸姓を随へ、北国を経て奥州に下向せられた、 比内の郡に至り、東方遥に巍峨たる高山を仰ぎ見給ひ、 吾が心の止る所は、彼の高山なり と仰せられ、急ぎ参られし程に、図らずも山麓小豆澤にて、御母吉祥姫の墳墓並に大日堂を 拝するを得、追想懐旧、万感交も胸に迫って流涕数行、従臣に告げて曰く、 「吾、将に東の嶽に入り、苦患修業、以て身を終ふべし、汝等永く此地に住みて、 土民を愛撫せよ」 と、斯くして都の方に向ひ遥拝して、山深く分け入られたといふことである、 されば郷人、此山を五の宮嶽と名づけ、五の宮神社として祭祀したのであった。 因に安保、秋本、奈良、成田の四姓は、鹿角開闢の祖先であって、中世鹿角四十二舘を 居城とせし四十二の武士は、悉く其末裔である。 だんぶり長者伝説 |