「鹿角」
 
△四 鉱業地としての鹿角
<尾去沢鉱山>
 尾去沢の発見は、遠く和銅三年に遡り、全国に於ても実に最古の部に属し、明和三年南部(盛岡)藩 の御手山となり、連綿として産額を減せず、同藩の経済に寄与した事も多大なものであったであろう、
 維新後二三、個人の手に経営されてが、明治二十二年三菱の手に移るに及んで、最新式の 施設を施し、専ら銅鉱を主として採鉱を続け、今日に到って居るのである、
 其の鉱区内の元山、田郡タゴオリ、赤沢一帯の山脈は、数百年間採掘され、坑道、蜂の巣の如く 縦横に貫通されているに係らず、鉱脈杜絶せず、鉱量、毫も欠乏の状なきは、全く奇蹟的の鉱山 と称されている。
 
 今、鉱石が堀り出されてから粗銅になる迄の経路を一覧するに、 先づ坑内より電車に依って運び出された鉱石は大割にかゝり破砕せられて、更に機械によって手選場 に運ばれ、熟練せる工女達によって鉱石と捨石と片刃に分たれ、片刃は更に又器械によって破砕され、 篩別器に懸りて精疎を分たれ、疎なるものは更に破砕作業を受け、又々淘汰跳汰機にて 精鉱と片刃と捨石に三分され、精鉱は精錬に、捨石は放捨され、片刃は又々破砕さるゝこと数度にして、 最新式の浮遊式選鉱の装置に掛って、茲に選鉱の作業は了するのである、
 本鉱山は鉱石の性質上、選鉱に最も重きを置き、山の半面を掩ふて数百間に建て列ねられたる 大屋の中は、総て大小連聯せる機械を以て充満し、日夜轟々として運転を続け、数百の人員、其の中に 活躍して作業に従事するの状、真に壮観を極めて居る。
 
 精錬は、選鉱より来れる精鉱に「コークス」を加へ、溶鉱炉に入れて溶解し、「カラミ」と銅の 含有分(ヒのこと)と二種に分つ、「カラミ」は捨てられ、ヒ(金偏+皮)は「真吹」に掛け、「フイゴ」の 作用を施し、硫黄分を吹飛ばし、全く石と銅とに分離せしめて、茲に始めて粗銅が出来、此粗銅は総て 大阪の三菱精錬所に送られ、彼地にて電気分解によって、金、銀、精銅となり、世界の市場に出る順序 となるのである。
 
 それから採鉱に関する装置も尾去沢の特色であって、高き坑道は漏斗を用ひ、短き所は巻上機を利用して 採掘したる鉱石は、四条(赤沢、田郡、元山、石切沢)の電車線に運び、之を更に中央の大墜道に集め、 電車を以て選鉱場の前に出す仕組である、
 而て目下八時間交代を以て坑内に働くもの約八百人、選鉱二百六十余人、精錬三百九十余人、其他にて、 合計二千三百余の労働者を使役し、役員現在百二十余名、大正八年度に於て四百十五万四千八百五十斤の 粗銅を産出してい居る。
 
 目下の山長は工学士瀬川徳太郎氏であって、使役人の待遇等に就ては三菱会社の内規に準じ、傷病手当、 葬祭料、結婚、出産費の支給等夫れ夫れ施設されて居るが、就中、医院は医学士大類薫氏を院長とし、 外科、内科、眼科、歯科等の各部に分れ、使役人に限り、一日参銭を以て医薬を給して居る、 尚役人に対する倶楽部の外、近頃劇場共和舘を新設して労働者並に其の家族の慰安に力めて居る。
 
 本山は経歴尤も古き鉱山とて、鉱夫も親代々其の業を継承せる土着のもの過半を占め、他の所々を 浮浪する鉱夫に比し、思想大に穏健にて、自己の家屋等を所有せるものも少からず、労働問題のやかましき今日、 絶へて同盟罷業等の噂を聞かざるは、一は三菱風の地味着実の経営法による可しと雖、又労働者の 気風、大に他に異なるものあるに依ることは勿論である。

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