鹿角の近代人物伝2
 
…… 尾去沢鉱山日記「阿津免草」の著者 ……
△阿部恭助   文政五年(1822)〜明治三十五年(1902)
 「阿津免草」は、文久四甲子歳元旦、第三巻々頭の
 禿筆の 齢もながき春の野に
   萬の草を かき集めけり。 清風亭 東月
からとったものである。文久三年(1863)から明治四年(1871)にわたる、御銅山御日拂主役 阿部恭助の諸々の書留である。
 この八年間は、南部領盛岡藩にとって最も多難な維新動乱の時代であった。 火の車の藩財政を支えるため、山中一同、必死の増産をはかっていた。 この日記風の記録は、山中の苦難の模様が生々しく描き出されている外、幕末に於ける御銅山 の生産の仕組や地域のとのかかわりが詳細に書き留められていて、当時の世情を知る上でも、 貴重な資料となっている。尤もそのうち、六、十一、十二、十三の四巻を欠いているが、何処 かへ貸し出し、返本がなかったもののようである。
 
 恭助は文政五年八月一日、御銅山外方主役阿保権八の長子として尾去沢軽井沢に生まれた。 幼少の頃から群を抜いて俊才の聞こえが高かった。御役方一条某(御支配人一条友次郎の父と 思われる。)は、その才能を惜しみ、江戸詰を命ぜられるに当たり、少年恭助を伴い、藩邸内に ある一条家で勉学させた。恭助十二三歳の頃である。江戸遊学中、辻斬りに襲われ、危うく生命を 落とすところを、一条家の猛犬に救われたことなどが伝えられている。
 江戸表で誰に師事し、何を学んだか一切わかっていない。恐らく当時余り注目されなかった経済学 や冶金学を勉学したものと思われる。
 
 数年にして帰郷し、床屋主役等を歴任し、間もなく一山の経由を担当する御日拂主役の要職についた。 博学篤学の士で、御城下や江戸出府をする者があれば、必ず数金を投じて多くの書籍や手習手本の 購入を依頼している。
 従って恭助の書き残した御定目書をはじめ、阿津免草など数多くの記録は達筆流麗で、並々ならぬ 学殖の深さが偲ばれるが、中々難解である。趣味も広く、好正堂、或は清風亭東月と号し、俳句・和歌 をよくし、同好の士を集めて句会をやっていたらしく、膨大な句集を残している。
 
 恭助は明治三十五年八月二十五日、八十一歳で病没するまで、まさに学習の生涯であった。晩年の 日記類など少しも老年の衰えをみせていないのは、常に修養を怠らなかった賜であろう。
 尾去沢銅山が井上馨の陰謀によって接収されてからも、御役方として数々の貢献をなし、逸通と 称することを許された、とあるから、恭助の諸記録を読むことについて、更に多くの問題解明が 期待される。
 
 なお、一言阿部家について触れてみる。
 明和二年、全面撤退を余儀なくされた山の目小平次(阿部)の残務整理に尾去沢を訪れたのが、 阿部家初代の小助正吉マサヨシである。小助と小平次の関係がはっきりしないが、恐らく二代目小平次の 分流であろう。小平次の銅山経営の一翼を担っていた野尻左京(阿部、二代目左京か。注)に見込まれ、 その娘をめとった。
 小助は安永五年、二十五歳の若さをもって狼倉オイノクラ(不老倉)銅山の主役にあげられたが、 寛政六年狼倉は休山となり、田山に隠世して漆を商っていた。同十一年長崎御用銅確保のため、 漸く衰微をみせ始めた銅山建て直しのため、再び召されて外方、床屋主役となった。
 恭助の子孫には、一ノ関の阿部厚一氏(前北上製紙専務)と尾去沢軽井沢の阿部佐一郎氏がある。 この「阿津免草」は、阿部佐一郎氏所蔵のものである。
出典:鹿角市史資料編第二集
注:別掲 「幻の郷士・野尻左京」 の項参照

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