鹿角の近代人物伝
 
…… 建設業界に貢献した誠実一徹の人 ……
△八重樫喜作   明治二十五年(1892)〜昭和四十五年(1970)
 現在の大湯小学校の校旗は、昭和三十九年の大湯小学校創立九十周年記念事業の一つ として、八重樫組の創立者八重樫喜作氏が寄贈されたものである。
 当時校長であった私(奈良寿)は、届いたばかりの校旗を真っ先にお目にかけようと 、同氏のお宅を訪ねた。氏は私を奥の一室に案内し、「しばらくお待ちください」と 席をはずした。五、六分もたってあらわれた氏は、羽織袴の正装であった。あっけにと られた私を上座に据え、校旗は床の間に飾り、御自分は下座にさがって「私は若くして 郷里を出、一労務者として当地に参り、地域の皆様から並々ならぬ御愛顧をうけ、今日 を築くことが出来ました。九十年の盛典に辺り、大湯の少年たちに立派な校旗を贈らせ ていただき、誠に有難いことです」と深々と頭を下げられた。八重樫喜作とは、こんな 人柄であった。
 
 喜作は、明治二十五年八重樫富蔵の二男として、岩手県岩崎村に生まれた。小学校を 抜群の成績で卒業したが、上級校へ進むこともならず、ある豪農の作男となった。当 時作男の労働は過酷で、朝仕事から戻っても、土間で立って食事をする程であった。十 七、八歳のころ不老倉へ移り、兄半四郎や間もなくやって来た弟吉弥と三人で、道路工 事など土方仕事をした。義妹のトクさんの話では、兄弟のために作ってあげた肩あて ふとんが、夕方には血でぐしょぐしょになっていたということである。不老倉が隆盛と なり、秋田県の道路工事などが始まると、兄弟も道路の一区間を担当した。多くの区間 がやり直しを命ぜられた中で、八重樫兄弟の仕事は、一際立派な出来栄えであったとい う。
 
 そして苦節十年、誠実な仕事ぶりが認められ、大正五年に八重樫組を創立した。その 後着々と業績を伸ばし、昭和二十五年八重樫建設株式会社となった。以来幾多の盛衰を 重ね、八郎潟干拓で思わぬ蹉跌を来したこともあったが、苦難を克服して、今では仙台 、鶴岡、盛岡など六つの事業所を持つ、県内有数の建設会社となっている。
 自分は辰年生まれだから百歳まで生きる、といっておられたが、同四十五年一月、人情 に厚く誠実一徹の生涯を閉じた。

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