二所関軍右衛門と長嶺
 
 本稿は、八幡平老人大学学習記録集「八幡平傳承ひろい其の一」に記載されている 「二所関の墓地について(長嶺阿部義英氏)」を参考にさせていただきました。
 
 長嶺の西館墓地は、国道(341号)の八幡平方面へ向う左手の、鹿角盆地を一望に見渡 せる眺望の良い段地上にある。石塔が数ある墓地の中で、一際目立つ、重さ百十貫ばか りの古い墓石の下に、沢庵沢風居士は眠っている。
 沢風とは、幕末の文化文政年間の頃、当長嶺出身の怪力士で江戸角力、二所関軍右衛 門、四股名は沢風関のことである。
 
 沢風こと二所関軍右衛門は、当長嶺の阿部甚之助家七代前の先祖に当る甚之丞の次男 として生まれ、幼名は甚八、幼時より人に優れた体格と力量の所有者であった。
 甚八が六歳当時のこと、長嶺から花輪の町まで、ニ里の道を米俵一俵を背負って、父 と共に歩いていって届けた、と云う話が残っている。家を出て一里ばかり歩くと大里部 落で、そこで小便をして一休みし、それから一気に花輪まで歩き続けたのである。
 
 甚八が十五歳のとき、南部藩御陸尺にとられ、藩主南部利斉公の御側に仕え、特に藩 主のお気に入りで、怪力を発揮して人々を驚かせた話がいろいろあると云う。
 その後甚八は、藩公の意を受けて、御抱え力士として江戸角力に入り、四股名を沢風 と称し、二所関一門の入った。
 
 それから沢風関の力士生活の烈しい練磨・苦闘の時代があったことと思われるが、やが て沢風関は、江戸角力として禁手三つを申し渡される程の怪力の強者となり、角界の第 一人者となった。三つの禁手とは、カンヌキ、ハリテ、カワズガケの三手であり、相手 力士の怪我を防ぐために、絶対に用いてはならないと云う、沢風関のみの俗人的な厳し い定めであったと云われている。
 
 沢風関は、地位としては十両筆頭どまりではあったが、これは当時江戸角力として、 関西角力と対抗してゆくための一つの方策であった、と言い伝えられている。
 その後沢風は、二所関部屋の親方を継いで、二所関軍右衛門として、全国的にその名 を知られるようになった。
 江戸角力の本場所で、角界を風靡した沢風関の全盛時代の頃、文政十年(1827)に毛 馬内の人が、江戸角力を観た記録に、大関を破って日本一の角力取になった、と二所関 軍右衛門のことがあるが、これは沢風二十四歳の頃であった。
 
 その後天保九年、遂に病を得て郷里長嶺に帰り、三十六歳の若さをもって一代を終え たのであった。
 沢風が闘病生活の間にも、一日も体を鍛えることを止めなかったようで、毎日八幡神 社に祈願しながら、二百数段の石段急坂を両手に米一俵ずつを下げながら、上り下りし たと云う。
 自分の死後のために、大きな自然石を川原から運んで、墓石として残しておいたとさ れる。
 昭和二十五年、鹿南中学校(現八幡平中学校)において、大角力興業の折、二所関一 門による墓参と供養角力が行われた。
[地図上の位置(墓地)→]
「鹿角の近代人物伝」

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