「錦木塚(続き)」   石川啄木
 
のろひ矢の巻(長の子の歌)
 
わが恋は、波路遠く丹曽保船の
みやこ路にかへり行くを送る旅人が
袖かみて荒磯浦に泣きまろぶ
夕ざれの深息にしたぐへむかも。
夢の如影消えては胸しなえて、
あこがるゝ力の、はた泡と失せぬ。
 
遠々き春の野辺を、奇琴なる
やは風にさまされては、猶夢路と
玉蜻と白う揺るゝおもかげをば
追ふなべに、いづくよりか狭霧落ちて、
砂漠のみちことごと閉ぢし如く、
小石なす涙そでに包み難し。
 
しるしの木妹が門に立てなむとて
千夜あまり聞きなれたる梭の音の
ああそれよ、生命刻む鋭き氷斧が。
はなたれて行方知らぬ猟矢のこと、
前後暗こめたる夜の虚に
あてもなく滅び去なん我にかある。
 
新衣映く被き花束ふる
をとめらに立ちまじりて歌はむ身も、
かたくなと知らず、君が玉の腕
この胸にまかせむとて、心たぎり、
いく百夜ひとり来ぬる長き路の
さてはただ終焉に導く綱なりしか。
 
呪ひ矢を暗の鳥の黒羽に矧ぎ、
手にとれど、瑠璃のひとみ我を射れば、
腕枯れて、強弓弦をひく手はなし。
三年凝るうらみの毒、羽にぬれるも
かひなしや、己が魂に泌みわたりて
時じくに膸の水の涸れうつろふ。
 
愛ならで、罪うかがふ女の心を
きよむべき玉清水の世にはなきを、
なにしかも、暁の庭面水錆ふかき
古真井に身を浄めて布を織るか。
梭の手をしばし代へて、その白苧に
丹雲なしもゆる胸の糸添へずや。
 
ああ願ひ、あだなりしか、錦木をば
早や千束立てつくしぬ。あだなりしか。
朝霜の蓬が葉に消え行く如、
野の水の茨が根にかくるゝ如、
色あせし我が幻、いつの日まで
沈淪わく胸に住むにたへうべきぞ。
 
わが息は早や迫りぬ。黒波もて
魂誘ふ大淵こそ、霊の海に
みち通ふ常世の死の平和なれ。
うらみなく、わづらひなく、今心は
さながらに大天なる光と透く。
さらば姫、君を待たむ天の花路。
 
 
梭の音の巻(政子の歌)
 
さにずらひ機ながせる雲の影も
夕暗にかくれ行きぬ。わがのぞみも
深黒み波しづまる淵の底に
泥の如また浮きこずほろび行きぬ。
 
涙川つきざる水澄みわしれど、
往きにしは世のとこしへ手にかへらず。
人は云ふ、女のうらみを重き石と
胸にして水底踏める男の子ありとo
 
枯蘆のそよぐ歌に、葉のごとく、
我をうらみ、たえだえなす声ぞこもれ。
見をろせば、暗這ふ波ほのに透きて
我をさそふ不知界のさまも見ゆる。
 
真袖たち、身を浄めて長年月、
祈りぬる我が涙の猶足らでか、
狂ほしや、好きに導けと頼みかけし
一条の運命の糸、いま断たれつ。
 
来ずあれと待ちつる日ぞ早や来りぬ。
かねてより捧げし身、天のみちに
美霊のあと追はむはやすかれども、
いと痛き世のおもひ出また泣かるる。
 
石戸なす絆累かたき牢舎にして
とらはれの女のいのち、そよ、古井に
あたたかき光知らず沈む黄金、
かがやきも栄えも、とく錆の喰みき。
 
鹿聞くと人に伏せし湯の沢路
秋摺りの錦もゆるひと枝をば
うち手折り我がかざしにさし添へつつ、
笑ませしも昨日ならず、ああ古事。
 
半蔀の明りひける狭庭の窓、
糸の目を行き交ひする梭の音にも、
いひ知らず、幻湧き、胸せまりて、
うとき手は愁ひの影添ふに痩せぬ。
 
ほだし、(ああ魔が業なれ。)眼を鋭く
みはり居て、我が小胸は萎え果てき。
その響き、心を裂く梭をとりて
あてもなく泣き折れる我は愚かや
 
心の目内面にのみひらける身は、
霊鳥の隠れ家なる夢の国に
安さ夜を眠りもせず、醒めつづけて、
気の沮む重羽榑に血は氷りぬ。
 
錦木を戸にたたすと千夜運びし
我が君の歩ます音夜々にききつ。
その日数かさみ行くを此いのちの
極み知る暦ぞとは知らざりけれ。
 
恋ひつつも人のうらみ生矢なして
雨とふる運命の路など崢しき。
なげかじとすれど、あはれ宿世せまく
み年をか辿り来しに早や涯なる。
 
瑞風の香り吹ける木蔭の夢、
黒霧の夢と変り、そも滅びぬ。
絶えせざる思出にぞ解き知るなる
終の世の光、今か我がいのちよ。
 
玉鬘かざりもせし緑の髪
切りほどき、祈り、淵に投げ入るれば、
ひろごりて、黒綾なす波のおもて、
声もなく、夜の大空風もきえぬ。
 
枯藻なす我が髪いま沈み入りぬ。――
さては女のうらみ生きて、とはの床に
夫が胸をい捲かむとや、罪深くも。――
青火する死の吐息ぞここに通ふ。
 
ひとつ星目もうるみて淡く照るは、
我を待つと浩蕩の旅さぶしむ夫か。
愛の宮天の花の香りたえぬ
苑ならで奇縁を祝ぐ世はなし。
 
いざ行かむ、(君しなくば、何のいのち。)
悵み充つ世の殻をば高く脱けて、
安息に、天台に、さらばさらば、
我が夫在す花の床にしたひ行かむ。
 
(甲辰の年一月十六、十七、十八日稿。この詩もと前後六章、二人の死後政子の父の述
懐と、葬りの日の歌と、天上のめぐり合ひの歌とを添ふべかりしが、筆を描きしよりこ
ゝ一歳、興会再び提へ難きがまゝに、乍遺憾前記三章のみをこの集に輯む。) 
 
参照リンク 石川啄木「愛の喜びと不安」サイトから
石川啄木と鹿角
「鹿角の国を懐ふの歌」
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