7101四角の鬼
 
                      参考:斎藤長八氏著「不老倉鉱山誌」
 
 四角の鬼(小平村では四角八面鬼とも)が風を吹かすと、その年は飢饉になると言っ
た。
 大湯・草木付近の人達は「東ボッチ(帽子)」と云い、東山(四角岳や中岳)が曇っ
て、ボッチを冠ると、東風が吹き、その年は飢饉になる、不吉な年であると言った。
 
 下草木に残る左多六伝説では、左多六が四角岳の麓で撃ったカモシカが三戸のエンコ
角良に逃げたので、それを追った左多六が、三戸城の役人に捕らえられたことになって
いる。この時、四角の鬼は左多六を恨み、カモシカに化けて左多六を捕らえさせ、刑死
させたと云うのである。
 
 また来満節には、「四角岳から鬼ケツ出した、今月来月再来月」と歌われる歌詞があ
る。この意味はよく分からないが、様々な形で四角の鬼は飢饉の原因となり、人を恨ん
で悪いことをし、人間の社会に害を与えるものと信じられていたようである。
 
 このように、周辺の人々から東山と呼ばれ、高い山、美しい山として神聖視されてい
たことが、中岳に猿田彦大神の石碑建立(別掲)となり、細地鉱山焼打ち事件(別掲)
などを引き起こした原因となったものであろう。
 鬼が風を吹かして飢饉になると云うことは、江戸時代までの人々にとっては、生死を
左右する重大なことで、そうした神々が東山に鎮座して里人を守ってくれると信じられ、
長い間、私達の祖先が生活してきたことを、このように伝承しているのである。
 
△猿田彦大神の石碑建立
 不老倉山中で最も標高の高い中岳(1024m)の山頂の三角点の近くに、
  天明三年(1832)卯月七月十三日
  奉斎 猿田彦大神命
  不老倉総山中 赤穂氏
の石碑が立っている。
 石碑は、凡そ五十貫の大きさとのことである。。
 ある時、いたずら者があって、この石碑を突き飛ばしたが、翌日になって見たところ、
旧所に復していたと云う。
 
 天明の大飢饉の頃に立てられたこの石碑の建立者は赤穂氏で、氏は天明五年頃尾去沢
銅山の山師として活躍していた赤穂満矩と云う人物と考えられる。この人は、『下財聞
書』(鉱山聞書)の記述を残しているが、その内容は探鉱法に関するもので、山形、日
光の当たり方、草木の状況など山相から、露頭・転石・流砂の吟味などまで、当時として
は、進んだ探鉱法を詳細に書いた本である。この人物が不老倉銅山に何らかの関係を持
ち、鉱山の繁栄や安全を祈って建立したものと想像される。
 
 里が悪天候なのは鉱山が東山にあり、里人はこれを嫌っていた。また当時の鉱山で働
く人達 − 鉱山衆に対する反撥心が、里人の間に充満していたのであろう。
 
△細地鉱山焼打ち事件
 安政年間(1854〜60)の初め頃、当時、不老倉銅山に隣接する細地銅山が盛んに稼行
されていた。その年は春から東風が吹き募った。小平村の人達は寄合を持って話し合っ
た。これは細地銅山が稼いでいるので、「四角岳の山鬼(四角八面鬼)が風を吹かすの
だ。誰か細地の坑夫小屋を焼き払わないか」と。
 
 そこで清蔵・佐蔵・乙子と云う若者三人(実はもっと多数)で夜に密かに山に登って、
坑夫小屋など一切の建造物を焼き払った。それが盛岡藩の取り調べを受け、三人は責任
者として捕らえられ、死刑にされるところであった。ところが盛岡藩に慶事があって、
減刑九年の永牢の申付けとなった。更に姫様の誕生の慶事もあって、結局は七年の受刑
で放免されたのは文久二年(1862)であった。
 
 この事件は、鹿角の東山信仰を示す事件である。安政年間に大飢饉が続いたことは史
実で明らかであるが、こうした時、東山が曇ることや、東山が汚されることを嫌ったも
ので、東山地帯にある細地銅山を採掘することは、山気を汚すことで山神が起こって冷
害を起こす、そのために凶作が続いていると信じていた、と云う民間信仰から起こった
事件であったのである。
 
 小平村では、この事件に遭って入牢した人達を、村中で助け合いをしたと伝えられ、
盛岡藩でも慶事に合わせて減刑したことは、せめてもの恩情であった。
 東風による冷害は、神意を汚すことから、その神意を鎮めるために、山を荒らした坑
夫達が災難に遭わなければならなかったのである。

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