5101柴内シバナイの八郎太郎
参考:鹿角市発行「陸中の国鹿角の伝説」
八郎太郎は、「八の太郎」とも云って、柴内の東町ヒガシマチの生まれと云います。
先祖は、比内ヒナイ(北秋田郡)の十腰トコシと云う処で暮らして居ましたが、柴内の木村
の家を頼って、昔暮らして居たことのある東町に来たのでした。
家が九代も続いた為に、九代目の孫の八のことを「九代」とも云っていました。その
子供が八郎太郎で、「孫家マゴエの太郎」と云うのが本当です。
今、東町には「八郎屋敷」と云う処と、八郎太郎が産湯ウブユに使ったと云う湧き井戸
があるばかりで、昔は井戸掃除をすれば西町ニシマチの井戸まで濁ってしまいました。
昔は柴内の人達は、八郎屋敷の事を聞くと、
「あゝ、孫の婆の家の事でしょう」
と云って、八郎太郎の話を語っていただいたものです。
とにかく柴内の人達、特に木村卷き(一族)の人達は、昔から十和田湖へは行きませ
んでした。学校の遠足でも、ただの一度も行った試しは無い筈です。それは、十和田湖
の主ヌシになった柴内出身の八郎太郎は、南祖坊ナンソボウに追われてしまった為です。
ところで、その八郎太郎は生まれた時から大きくて力持ちでした。大きくなり次第、
稼ぎ手で評判の親孝行者でした。
毎年、六月の十五日過ぎになれば、南光院ナンコウインに来る行者達が十和田山に修験シュゲン
のお山駆けをするのが恒例であったので、八郎太郎はその先達サキダチ(案内人)になって
出掛けるのでした。
途中、上台ウワダイの白山ハコサン様に立ち寄って祈願してから、あっちこっちの山人ヤマヒト達
も一緒に連れて行きました。
その頃の道は草木クサギ、大湯から来満ライマンを越えて、奥瀬オイラセのお国の大岳オオダケを回
って、十和田山に行くものでした。八郎太郎は、行者達を修験場(修業する処)に案内
すれば、今度は帰るまで四日でも五日でも三人の仲間と組んで、級マダの木(シナノキ)
の皮剥ハぎの仕事をすることを恒例としていました。
「級の木の皮は水に浸けてから干せば、軽くなって幾らでも背負えるものだ」
と云うので、川の近くに小屋掛けしていました。
ある時、炊カシきの番(炊事当番)に当たった八郎太郎は、岩魚三匹喰って、あまりの
喉ノドの渇カワきに沢水サワミズ飲み続けて、とうとう恐ろしい大蛇になって、十和田湖の主
となってしまった話を、仲間の若者達から聞いた八郎太郎の二親(父母)は毎日毎日泣
いて暮らしていたと云います。
けれどもたとえ我が子が魔性(魔物)になっても、親子は親子です。子供の苦しみを
助けてやるのが親の務めであると決心して、冥土メイドの王(閻魔エンマ大王)十体を彫っ
て、家の後ろに十王堂を建てて拝み、夫婦して白装束を着て、十和田の湖ウミ深くにいる
我が子の八郎太郎の処を訪ねて行ったと云うことです。
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