0201松館部落の伝説(松舘)
参考:八幡平地区老人クラブ連合会老人大学学習記録集「八幡平伝承ひろい」
大昔のこと、松館は館主松館瀬左衛門精長卿を中心に、その館を取り巻いて七十五軒
の戸数があったと伝えられている。現在の松館部落地内は三十軒位で、その他は野月、
楽平、鍛冶屋敷、鍛田、湯の沢、猿ケ窪等に分散して建ち並んでいたと云う。
天神社の後ろ側に、「湯の沢」と云う沢がある。沢の出口に湯谷地と云う谷地があっ
て、其処から湯が湧いていたと云う伝説がある。現在でも其処から湧き出る水で、三百
米位下流まで川の石が、湯花が付着したように白くなり、湯花の状態が認められる。
村人が農作業の傍ら、この湯を憩いの場とし、楽しみながら生活の励みを繰り返して
きたものと思われる。
ところが正安三年に、瀬左衛門精長卿が天満宮を建立した際、神様の水口の上カミから、
湯治場の不浄物を流すは、神様に対し不敬に当たると言うので、湧き湯をタマゴ殻に入
れて、萱の苞ツトに包んで、大滝の神様に献上したと伝えられている。
それで大滝の湯は、茹卵の香りがするとか、また萱の根株の間から湯が湧いていると
のことである。
そこで村人は憩いの場である湯治場を失い、淋しい日々を送っていたところ、瀬左衛
門精長卿が村人挙げて信仰の道を開き、毎月二十五日には村人全員、天神社の境内に集
まり、酒肴を振る舞い、歌、酒盛りをし、毎月講中の順番で、「当講トッコ」と云う名目で
信仰を続けていた。
ところが、七年続きの大飢饉に襲われ、作物の種無しの状態になったので、村人が誰
しも食糧に事を欠き、山からドングリ、ブナ栗、ホタの根、その他木の葉や草の根など
何でも食べたそうである。
明治、大正の頃には、茹でて干したマダの葉の入った叺が二俵、粟と稗の入った俵二
俵などが、屋根裏の梁に貯蔵してありました。このように昔の人は、飢饉の恐ろしさを
身に滲みていたことが分かる。
このように飢饉続きのため村人は、日々の生活に甚だしく困窮状態に陥り、毎月の当
講の催しも出来ず、毎月の参拝も怠り勝ちになっていたと云う。
しかし、そのときただ一人政吉(又吉とも)と云う律儀者の農夫があって、毎月旧二
十五日には欠かさず、家族揃って、何か有り合わせの物でお供物を作って、一心に礼拝
を続けていたと云う。
ある年の春に、松館部落の中程に火事が起きて、東風だと思えば西風に変わり、見る
見るうちに焼け落ちて、最後に政吉の家に火が被り、今にも移らんとする寸前に、火伏
せの笹(菅原神社の春の例大祭のときお湯立てに用いた笹の葉)を持って、水を付けて
振ったところ、忽ち風は反対方向に変わり、かろうじて難を逃れたと云う。
それからは、村人全員が信仰に精を出し合い、当講の復活をして、現在まで持続して
いる。
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