04 東西の連絡路としての鹿角
 
 寛正六年(1465)京の都へ南部産の駿馬を輸送するとき、庄内酒田を経由した(『南
部家譜』『南部世譜符録』など)とされる。それは秋田の仙北・平鹿経由、つまり岩手の
雫石から生保内、又は西和賀から横手への道であると考えられる。
 とすれば、その脇往還として、鹿角経由も推察される。即ち、承和元年(1345)、出
羽本庄に潜んでいた松江光脩が出羽から北川陣に参ずるに際し、鹿角郡白根山の下を通
り、「後傍々続巡而、鹿角郡内白根山元庵正空舎ニ躰密而土民之蔭ニ命齢寸」と云う因
縁と、戦勝の吉相として閉伊郡松山に築いた城館を白根シラネ城と命名、松江氏を白根氏と
改めたとその系譜に記し(『白根系図』)、鹿角通過のことを伝えている(『岩手県史
』)。
 天正十九年(1592)の九戸争乱に当たり出羽国諸将は鹿角を通過して浄法寺口へ攻め
入った。即ち『戸沢家譜』光盛ミツモリの譜に、「出羽国諸将ノ鹿角郡ニ打入ル面々ハ惣大
将最上出羽守義光、秋田城之介実季、戸沢九郎光盛、小野寺孫十郎光道(中略)等都合
二万五千余人、狭布ノ里錦木塚ヲ経テ花輪ノ里ニ陣取ル、大手ノ相図ヲ持ツ処ニ八月廿
二日最上義光ノ下知ニテ浄法寺口ヨリ攻入ル」と云のである。
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