02 茶道の歴史
参考:保育社発行「茶道入門」
〈茶の渡来〉
喫茶趣味の本家は,云うまでもなく中国です。中国においては唐トウ時代(618〜907)
に,既に茶を飲むことが流行していて,『茶経』と云う本が出版されていた程です。
『茶経』は唐代の文人陸羽リクウが著したもので,中国の茶の歴史,製法,器具,茶の煎
じ方,飲み方などが書かれており,当時の喫茶の方法を知ることが出来ます。
△団茶
『茶経』の中に「団茶ダンチャ」のことが書かれています。茶の葉を蒸して茶臼に入れて
搗き,それを団子のように丸く固めて保存して置きます。それが団茶と云うもので,こ
のようにして置きますと,持ち運びに便利ですし,長く保存も出来ます。今日において
も中国の奥地辺りにおいては,この団茶が用いられているようです。団茶の飲み方は,
それを適当に削り,上から熱湯を掛けて,その汁を飲むのです。
中国からわが国に,初めて茶が輸入されたのは,何時頃であったか,確実な史料が残
っていませんが,奈良時代に,わが国から中国へ渡った遣唐使ケントウシや,中国・インド辺
りから来朝した僧侶などによって,団茶が輸入されたことが想像されます。
△行茶ギョウチャの儀
『茶経』を解説した『茶経詳説』と云う本に,
本朝聖武帝天平元年 召百人僧於内裡 而被講般若 第二日 有行茶之儀
と書かれています。行茶の儀とは,人に茶を進めることで,引茶ヒキチャの儀とも書かれま
す。この記録は天平テンピョウ元年(729)に,聖武天皇が宮中に100人の僧侶を召して,般
若経ハンニャキョウを講読せしめ,それが終わった第二日目に,参列の僧侶のために,お茶を与
えられたことが書かれているのです。この行茶の儀は,その後天平勝宝元年(749)に
も,孝謙天皇が奈良の東大寺に,500人の僧を召して,盧舎那仏ルシャナブツの前において講
読せしめ,終わって茶を賜られた,と云う記録もあります。そしてこれらの儀式に用い
られた茶は,勿論中国から輸入された団茶であったのです。
〈わが国最初の茶園〉
△最澄が持ち帰った茶の種
延暦エンリャク二十三年(804)に僧最澄サイチョウが中国へ渡り,そして翌年六月に茶の木の種
を持ち帰りました。最澄は比叡山を開いて,其処に延暦寺を建てたのですが,中国から
持ち帰った茶の種は,比叡山の近江の国側の山麓の坂本に植えました。
茶の木は,種を播いて,それから芽を生じ,更に茶樹に生育して,茶の葉が摘めるよ
うになるには,大体五年かかります。
△永忠の煎じた煎茶
最澄が坂本に植えた茶の木は,弘仁コウニン六年(815)には,立派に生長しました。その
年の六月,嵯峨天皇が近江の国唐崎に行幸され,途中崇福寺にお立ち寄りになられまし
た。崇福寺の永忠エイチュウ僧都は,そのとき自ら煎じた茶を天皇に差し上げたと云います。
永忠は奈良時代の末に入唐ニットウして,平安朝初期に遣唐使に従って帰国していますの
で,おそらく中国において製茶の法や,喫茶法などを学んだものと思われます。嵯峨天
皇に差し上げた茶は,坂本において採れた茶の葉を自らが精製して,それを煎じたので
しょう。そしてこのときの茶が,これまでの団茶でなく,現在のような,茶の葉に湯を
注いで飲む煎茶とあまり変わりはなかったものと思われます。
△坂本の茶園
この坂本の茶園は,わが国最古の茶園として現在も残っていますが,永忠によって茶
の味を覚えられた天皇は,畿内キナイ(王城付近の地)及び近江,丹波,播磨の諸国に,茶
園を造るように奨励されたので,茶の生産は増加し,喫茶趣味が堂上・公家社会即ち貴
族階級の間に広まりました。その頃の茶の喫み方ノミカタは,団茶によく似ていますが,ま
ず茶の葉を乾かし,臼で挽いて粉にし,その粉を練り固めて,更に乾かし,団茶の形で
貯え,必要に応じてそれを解ホグし,これを煮出して,甘葛アマズラや生姜ショウガなどと云う
甘味や香味のあるものを加えて喫んだのです。
△中国の茶
中国における喫茶趣味は,元々文人趣味として発達したので,茶を喫みながら詩を作
ったり,それを吟じ合ったりしたものです。そのような中国の喫茶法が,わが国におい
ても行われたのです。『凌雲集』と云う当時の詩集には,その茶会の様子や,喫茶を賛
美した詩が載せられています。
このように平安時代初期に至るまでは,中国の文化を模倣していた時代でしたので,
貴族や僧侶,文人などの間において,中国風の喫茶趣味が流行していましたが,寛平カン
ピョウ六年(894)に遣唐使が廃止されますと,漢文学が次第に下火になり,それに替わっ
て万葉以後省みられなかった国文学が勃興しだしました。そして漢文学に付随していた
ような喫茶趣味も,一時途絶えたのでした。
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