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「鏡を覗く」考

 
 想うに、仏徒が「仏」を神と呼ばない理由は、前述のとおりであるが、これは仏教徒が仏教と、仏教以外の他の教え − 思想 − とを差別するためと推察され得る。
 
 また仏徒が「仏」に拘泥するもう一つの理由は、それは仏教は「自給自足」 − つまり現実に立脚した生き方を説いたものではなく、あくまでも、思考の中から生み出された「教え」であったのではないか、と垣間見られる。「神」とは、森羅万象 − 万物に対応し得る存在でなければならない。「仏」が神を名乗れない理由は、このことにあるのではないかと想えてならない。
 
 ともあれ、仏徒の目的とは、例えば、
@天台宗では、「法華一乗の教えを根本として、仏になる可能性がすべてのものに存在する……」
A真言宗では、「密教の行者は、自己の身体と言葉と心のはたらきの三者が、いずれも大日如来のそれらと同一であることを宗教体験として把握し、大日如来と一体化するために……」
B浄土宗では、「……どんな愚かな罪深い者でもその苦しみから救われ、明るく安らかな毎日を送り、真実にして幸福な人生を全うし、死後は、浄土に生まれることが出来る」
C臨済宗・曹洞宗では、「禅の教えは坐禅を通して宇宙一切を支配している法則、真理に適合することであり、これがために小我を打破して真実の自己に目覚めること……」
D日蓮宗では、「南無妙法蓮華経という教えが……この教えを聞き受けたもつことによって仏に成れるのである」
である。
 
[詳細探訪](教義)
 
 わが国の大部分の方々は仏徒である。その仏徒達は、仏の国(=神の国)に住んで、仏(=神)になることを目的として、いそいそと日々を送っているのである。
 
 更に考えると、例えば、
 聖書の世界では、唯一の神を戴く代償として、罪人にされたカイン(=人々の祖先)は、神のしるしをつけながら、永住の土地を求めて放浪しなければならなかった。
 
[詳細探訪]
 
 イエス・キリストは、禁忌の病人を癒し、また身を以て処刑されるなど、激動の人生を送られたが故に、人々にその復活を祈らせたのであった。
 
[詳細探訪]
 
 ムハンマド(マホメット)は、アッラーを唯一の神と定め、ジハード(聖戦)によって、属する小集団を守り、そして拡大させていったのである。
 
[詳細探訪]
 
 日本の神 − 天照大御神は、三大神勅に示されているように、国の在るべき姿を明らかにしている。
 
[詳細探訪]
 
 このように、「神」として認められるためには、人々の死活 − 生きる術 − に関する事柄を、まず第一に考えることであった。この「人々の死活〜生きる術」問題を掌握することこそ、神の特権なのではないかと、想うことが出来る。
 
 釈尊にあっては、例えば、
@いわゆる「生活」のために働く必要はなかった。
A従って、その「教え」には、生きるための「生臭み」が漂わない。
B「個の救済」に重点を置いている。
のように想えてならない。
 
[詳細探訪]
 
 従って、このように考えられるが故に、「仏」の名称に固執しているものと想われる。
 
 しかし現実においては、仏=神として、人々は理解し、納得しているのではないだろうか。
H16.01.16
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