[詳細探訪]
 
                      参考:小学館発行「万有百科大事典」
 
〈鍋島焼〉
 鍋島焼は、佐賀鍋島藩の藩窯である。二代藩主鍋島勝茂のとき、藩で窯を直営して秀
れた作品を焼き、城内の調度品や、将軍家・諸大名などへ贈答品に充てるために、寛永五
年(1628)京都から浪人の副田日清を招いて陶器方主任とし、有田の岩谷川内カワチに開窯
したのが起こりである。染付や青磁がある。寛文元年(1661)窯を南川原ナンガワラの柿右
衛門窯の近くに移したが、これは赤絵の技法を採り入れるためであったとみられる。そ
の作品は岩谷川内時代のものに比べて格段に進歩し、既に鍋島焼の特色を表した精巧な
ものになっている。延宝三年(1675)には更に窯を不便な山間の大河内に移して、窯技
の秘密の洩れるのを防いだ。爾来明治四年(1871)の廃藩置県まで二百年間、この地で
製作が行われた。岩谷川内時代を創始期、南川原時代を準備期とすれば、大河内時代は
完成期で、鍋島焼を代表する秀作はこの時代に焼かれ、かつ期間も長く、鍋島焼の最も
充実した時代なので、大河内焼の名は鍋島焼の別称のようにも使われている。
 
 鍋島焼は、素地・釉料・顔料は最良精選のものを使い、優秀な陶工を集め、成形・焼成に
も念を入れ、特に意匠・絵付に留意したので、秀れた文様の美しい精巧な磁器が作られ、
その表現には日本的な婉美な特色が溢れている。染付・青磁・色絵があるが、殊に色絵が
代表的で、これを色鍋島と呼ぶ。作品は主に皿・鉢・向付の類で、皿の高台は高く、染付
で櫛歯文様を描いたのは、櫛高台と云って特色の一つになっている。また色絵の輪郭が
染付なのも鍋島特有で、これは同じ文様を幾つか表す必要から生まれたもので、青海波
や墨流しの文様で、白抜きに使われる墨はじきの手法も、鍋島特有のものである。
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