[詳細探訪]
 
                      参考:小学館発行「万有百科大事典」
 
〈京焼〉
 京焼とは、京都の焼物の意から出た名であるが、普通近世初頭の京窯出現以降の作品
を指して云う慣わしになっている。ただしこの場合、楽焼は京焼の中に含まないことに
なっている。
 京焼の起こりは所伝では、寛永初年に瀬戸の陶工三文字屋九右衛門が京都に来て、粟
田口三条通りに開窯して粟田口窯を始めたのがそもそもであると云われているが、記録
によると慶長年間(1596〜1615)には既に京窯があったようである。なおこれとは別に、
小規模ないわゆる内窯ウチガマで焼く、俗に交趾コウチと云われる彩釉の軟陶は、室町以来既
に京都では焼かれていたらしくもみられ、この釉法も京焼の生成のうちに摂取されて行
ったことが考えられる。
 
 粟田口焼は京焼最古の窯で、その焼造は恐らく記録に見える寛永以前からあったもの
とみられるが、京焼初期における主流をなすもので、元禄頃まで続いていた。作品は茶
器を主とし、唐物茶入や呉器・伊羅保などの朝鮮茶碗の写しも焼いていた。信楽シガラキか
らも陶工が加わっているので、陶法には瀬戸・信楽の系統が土台になっていた。粟田口焼
に多い、錆絵サビエ(褐色の釉下絵付)やこれに染付を併用したものは、瀬戸系とみられ、
砂素地の焼締めは、信楽の作風に倣ったものである。
 
 粟田口焼と同時代に続いて起こった窯に、八坂焼・清水キヨミズ焼(初めは清水寺付近の
特定の窯を指したが、後には音羽焼も含めて染みず界隈の諸窯の総称となった)・御菩薩
ミゾロ池焼・清閑寺焼などがあるが、何れも茶器を主とするものであった。
 粟田口焼始め諸窯に、奢侈工芸的な傾向が著しかったのは、京都と云う特殊な都市に
生まれた工芸として当然の性格であったと言えるが、この点は今日でも依然として認め
られるところで、京焼を通じての特色として注目される。
 
 初期の京焼では通じて、錆絵やこれに染付を併用したものが主流であるが、粟田口焼
で始まった色絵(錦手ニシキデ)も相次いで諸窯で行われた。当初のものは粟田口を除いて
殆ど無印であるが、後には音羽・御菩薩池・清閑寺などそれぞれ印を押している。岩倉山・
錦光山・宝山などもやがて粟田界隈に起こり、錦手を得意としていわゆる粟田焼となっ
た。
 粟田・清水は京焼を代表して近代に及んでいるが、元禄以後は清水焼に中心が移り、そ
の名が洛東諸窯の総称のようにもなっているので、前期の京焼、殊にそれを代表する錦
手を後世の清水焼(磁器)と区別する意味で古清水コキヨミズと呼んでいる。
 元禄以後では、明和年間(1764〜73)に五条坂で開窯した初代清水キヨミズ六兵衛(1738
〜99)は異色ある陶工で、茶器に秀作を出し、窯は今日まで続いている。
 
 洛北御室オムロ仁和寺門前の野々村仁清の窯は一に御室焼とも云われ、殊に明暦・万治・寛
文頃が最盛期であるが、数々の傑作によって、初期京焼を代表するものと云われている。
丹波出身で、初め粟田口で修業し、また瀬戸へも茶入などの陶法修業に出掛け、後に御
室に開窯して各種の茶器や懐石道具に特色を出したが、殊に豪華艶麗な錦手で聞こえ、
京焼錦手を大成した意味で京焼色絵の祖と云われている。
 京焼の中で独特の趣を誇る尾形乾山も仁清の弟子で、初め鳴滝に築窯していわゆる鳴
滝乾山を焼いた。
 
 前期の京焼は専ら陶器の時代であったが、やがて時好の推移に連れて寛政(1789〜
1801)頃から磁器の中国風な染付や赤絵が焼かれるようになったが、その先駆をなした
のが奥田頴川エイセンである。その門下に青木木米・仁阿弥ニンナミ道八・欽古堂亀祐カメスケ・楽只堂
嘉介などがあり、木米・仁阿弥は永楽保全と共に幕末京焼の三名工と呼ばれている。
 後期京焼の主流は清水五条坂界隈の清水焼磁器とみられ、この傾向は今日に及んでい
る。
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