[詳細探訪]
参考:小学館発行「万有百科大事典」
〈九谷焼〉
九谷焼とは、石川県の磁器の総称である。最初は大聖寺の初代藩主前田利治が、家臣
の後藤才次郎に命じて明暦年間(1655〜58)に、大聖寺川上流の山間の僻村九谷に築窯
して焼かせたのが起こりで、元禄(1688〜1704)初年まで続いたと云われている。幕末
に起こった再興九谷と区別して、これを古九谷と呼んでいる。色絵が最も有名で、濃い
彩釉や秀れた意匠による表現は、古九谷独特である。その一種に素地キジを青・緑・紫・黄
の彩釉で塗り潰した手があり、赤がないので俗に青手と云うが、一に塗りつぶし手とも
云い、古九谷特有のものである。染付は藍九谷と云われ、この他瑠璃九谷があり、青磁
も焼かれている。錆釉地の一部に染付を配したものは、吸坂手と呼んでいる。しかし近
年になって、有田窯跡の発掘調査と見合わせて、古九谷の一部を古伊万里とする説も唱
えられている。
文政七年(1824)になって、大聖寺の豪商吉田屋(豊田伝右衛門)は、一時絶えた古
九谷の再興を計り、九谷の故地に窯を築いた。その作は青手の古九谷に倣ったもので、
青九谷又は吉田屋と云われている。九谷の僻地では不便なので、翌年には山代(江沼郡
)の越中谷に窯を移した。吉田屋窯は天保年間(1830〜44)には経営者が代わって宮本
屋窯となり、飯田屋八郎右衛門が絵付に妙技を揮って、細密な赤絵金襴手に特色を出し
た。この手法は八郎手と云われて世に大いに迎えられ、加賀の諸窯にも影響を与え、い
わゆる九谷赤絵の流行をもたらした。
これより先、文化初年には、青木木米が金沢に招かれて春日山焼を始め、色絵や青磁
に佳器を出したが、僅かの間であったとは言え、古九谷が絶えて以来これが加賀の地に
陶煙の上がった最初であり、大きな刺激となってこれをきっかけに加賀には陶窯が続々
と生まれた。
春日山焼に次いで起こったのは若杉焼であるが、加賀藩の後援もあって栄え、能美地
方における陶窯の魁サキガケとなった。また山代窯へは慶応二年(1866)京都から永楽和全
が指導に招かれたが、この時代の作を九谷永楽と呼んでいる。和全の山代滞在は僅かに
五年であったが、このために九谷焼は金襴手など技法の上で大いに向上した。和全の弟
子木崎万亀は八郎手に秀れ、八郎手に自家の工夫を加えて艶麗な彩色金襴手を始めた寺
井の庄三は、その作風が時流に投じ庄三風と呼んで頗スコブる賞玩された。
文化文政以後、九谷再興の機運に煽アオられて、江沼・能美・金沢地方における陶芸は目
覚ましい発展を遂げたが、この伝統は今日にも及んで、九谷焼はわが国製陶の大きな中
心の一つとなっている。