[詳細探訪]
 
                      参考:小学館発行「万有百科大事典」
 
〈官窯〉
 中国の朝廷・政府の費用を以て制作した陶磁器に対する名称で、宋時代以来この文字が
用いられるようになった。これより以前の漢時代から唐時代までは、金銀器・漆器を以て
皇帝・貴族の日常に使用する飲食器は製作され、それらは宮廷に直属する官署によって監
督され、その製造所は首都又は地方の生産地に置かれて専ら宮中用具のみを製作してい
た。陶磁が発達して器形・釉薬が美しくなったのは五代時代(907〜960)、即ち十世紀の
前半で、各地に諸侯王が勃興してその地の工芸品の興隆に心を用いるようになったため
である。
 
 陶磁の壺皿などに官の字を記した最初のものは、五代末時代に相当する北方の遼王朝
の陵墓から発見された白釉の陶磁の裏にある記銘で、この陵から応歴九年(959)の墓誌
銘が発見されているので、製作はそれより数年以前であることは明らかである。
 宋時代(960〜1279)の前半は北宋と云って北方の河南省開封市に首都を置き、後半は
南宋と云って江南の浙江省杭州市を首都とし、北宋は首都の付近に汝窯ジヨヨウ(臨汝県
)、鉤窯コウヨウ(禹県)などがあり、それらの地で官器を焼成せしめたのである。
 また江南の景徳鎮窯の青白磁と越州窯から脱胎した竜泉窯リュウセンヨウの青磁は共に宋時代
に高雅な製品が産出されて官器を焼成し、南宋都の臨安では宮廷外の郊壇コウダンの地に官
窯を置き、これを郊壇窯と称し、また修内司シュナイシにも窯を置きこれを修内司窯と称し、
共に青磁の精品を焼成した。
 
 元時代は首都が大都(今の北京)となり、北方では官窯と称すべき磁州窯系の製品は
あっても名品はなく、江南の景徳鎮の窯業が殊に発達して青花セイカ(染付)、釉裏紅
ユウリコウの名器が生産され、それらが恐らく官窯として進貢されたと考えられる。
 明時代からは景徳鎮に官窯が置かれ、器の高台裏に官窯にのみその時代の年号を記す
ことになり、清朝に至った。それで明清時代の官窯は何れも極めて精品で民窯との差が
非常に大きくなった。しかしそれだけに偽物も多く、明の成化年製の銘の如きは、わが
国でも日常飲食器の銘に用いている。
 わが国には諸侯の中に藩窯を置いたものがあり、これが官窯に相当する地方窯の枢軸
としての役割を果たした。
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