[詳細探訪]
 
                      参考:小学館発行「万有百科大事典」
 
〈伊万里〉
 有田焼(佐賀県有田町)は江戸時代伊万里港から船で諸国に出されたので、一名伊万
里焼と云われ、世上では却ってこの名の方が今も広く使われている。
 その起源は、文禄・慶長の朝鮮役(1592〜98)に佐賀藩主鍋島侯の家老多久長門守に従
って帰化した朝鮮陶工李三平が、初めは唐津風の陶器を造っていたが、やがて有田の泉
山に良質の白磁礦を発見し、元和二年(1616)に有田の上白川天狗谷の窯で初めて白磁・
染付の焼成に成功したのが起こりで、これは実にわが国における磁器の始原である。磁
器の焼成は忽ちにして肥前一帯に広まり、それまで帰化朝鮮陶工によって焼かれていた
唐津焼の陶器に代わって、肥前窯業の主流となったが、これを総称して有田焼(伊万里
焼)と呼んでいる。元和・寛永頃(十七世紀初期)の初期の有田焼は、未だ李朝風の面影
を伝えて深い味わいがあるが、特に初期伊万里と呼んで、いわゆる古伊万里と区別して
いる。
 
 寛永末年に有田南川原の初代酒井田柿右衛門は赤絵に成功したが、既に寛文(1661〜
73)頃には有田にも赤絵専門の赤絵町が生まれ、有田の赤絵は世に迎えられて海外にま
で輸出されるような盛況を呈した。柿右衛門では乳白色の濁し手と呼ばれる素地キジが工
夫され、これに余白を多く残して繊美な色絵を描いた独特の柿右衛門様式が生み出され
たが、この伝統は今日もなお踏襲されている。一方、柿右衛門の影響で生まれた有田の
赤絵は、元禄時代(1688〜1704)になると当時の華美な染織の図案を採り入れて、描き
詰め文様の濃麗な独特の伊万里錦手ニシキデを生み出した。この様式は有田焼における主流
とみ云うべきもので、最大の特色をなしている。元禄以後続いて行われているが、秀れ
たものの造られたのは江戸中期で、これを俗に古伊万里と呼んでいる。中でも珍重され
るのは形物カタモノと云われる錦手の鉢類で、五艘船(南蛮船)・荒磯アリソ(波に鯉)・琴高仙
人(鯉に仙人)・見込み寿字・赤玉・欄杆手ランカンデなどが有名である。江戸時代に古伊万
里はヨーロッパに盛んに輸出された。
 
 柿右衛門・古伊万里と並んで有田焼の特色とされる鍋島焼は、鍋島侯の御用窯で、最初
寛永五年(1628)に有田の岩谷川内に開窯し、次いで寛文初年(1661)には南川原に移
り、更に延宝三年(1673)には大河内に移って幕末まで続いた。作風精美で、殊に色絵
皿が秀れ、俗に色鍋島と云われるが、最盛期は元禄から享保にかけてで、成形や意匠も
格別に素晴らしい。
関連リンク 「動植物名に因む芸文(柿右衛門)」
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