4204 作歌法(続き)
 
[今川了俊和歌所 江 不審条々]
謹和歌所の人々御中に申、抑詠歌に歌言たゞ言といふかはりめは、いか成を申すべきぞ
や。先達の仰せらるゝごとくは、言はふるきを用ふべき云々。然れば古集歌以来の代集、
再三卅六人以下の家の集等に詠ずることばを則「歌詞」といふ、それに未だ詠まざるを
たゞ「詞」といふべきにや。されども上代にも読まぬ詞を、随分の歌仙達よまれためり。
就中始たる詞なりとも、さりぬべき一説ありぬべくは必ず読むべしと、をしへられたる
事も侍れば、末代なりとも、などか一々読まずと云侍らん。(中略)
大かた古歌の言なれども、つゞけながら一文字のおき所のかはりめによりて、耳にたゝ
んはわろく、たゞ詞なりとも、きゝよくばくるしかるまじきにや。(中略)
一前に申つる歌詞と申ぬべき事、思ひ出る間、重注候、
 
といへどゝいふ事を「てへ」とよみ、ことわりといふべきを「むべ」ともよみ、心なく
といふべきを「けゝらなく」とよみ、はしたにといふを「はしに」とよみ、しらずとい
ふを「いさに」とよみ、べしといふを「べら」とよみ、うちきりたるを「うちきらし」
とよみ、雪のふれるを「ゆきのふれゝば」とよみ、朝とくと云を「朝まだき」とよみ、
うちつれてを「うちむれて」といひ、たやすきを「たはやすき」とよみ、ぬるゝを「そ
ぼちつゝ」とよみ、きえぬべきを「けぬべき」とよみ、いもがもとへ行を「いもがり行
」と云ひ、こゝろからを「心づから」といひ、かつかつを「がて」といひ、人のきくを
「人のきかくに」といひ、人の目みせぬを「人もすさめぬ」と云、はづかしきを「やさ
しみ」といひ、きのふを「きそ」とよみ、うつつごゝろを「うつし心」とよみ、春かけ
てを「春まけ」とよみ、手もやすめぬを「手もすまに」といふ。
すべて斯くの如くの言数をしらねども、此類此等を歌詞とも申べきにや。さならでたゞ
詞と云べきさかひ、更にわきまへがたく存候まゝ、今案をかまへ出て尋申候。
 
[三のしるべ 中]歌のしるべ
歌の詞は、みやびてうつくしくをかしきをえらびとり、いひさまつゞくべきやうもさや
うにと、ふかく心してものする事ぞ。柿本大人山部大人などは、さるこゝろせられしと
見ゆれど、そのころは、なべてはそのわきまへもなくわろかりき。今の京こなたの歌よ
みは、かのふたりの大人にならひて、いたくこゝろするならひとなれり。
 
そは、古今集の歌の万葉集の歌とはことにして、詞みやびてうつくしきを見てもさとり
ぬべく。またかの集の序に、柿本大人山部大人をいたくほめて、しんじたるよしにいへ
るにてもしるべし。さてまた宇津保物語(俊蔭の巻)に、夕ぐれにいなびかりのするを
見て、
 
いなづまの影をもよそに見るものを なにゝたとへんわがおもふ人
 
つるいとあはれにうち鳴てわたる、此君これをきゝて、ましてかなしさまさりて、
 
たづが音にいとゞもおつるなみだかな 同じ河べの人を見しかば
 
とあるを見るべし。文の詞には「いなびかりつる」といひ、歌の詞には「いなづまたづ
」といへり、いたくこゝろせしことしられたり。かく詞によしあしあれども、ことばの
つゞきたるさまによりては、あしき詞もよくなる事あり。たとへば「つる」といふより
は、「多豆」といふかたよけれども、「しらつる」を「しらたづ」といひては、かへり
てわろし。さるからに庭訓抄に、すべて詞にあしきもなく、よろしきもあるべからず。
つゞけがらにて、歌詞の勝劣侍るべしともいはれしぞかし。これを思ひて、上のくだり
にいひさまつゞくべきやうもさやうにと、ふかく心すべしとはいへるなり。ただし定家
卿の説は、つゞけがらをのみむねとしたまへれば、かたよりてわろしよき詞とあしき詞
とはもとよりある事なり、えらぶべし。
 
[玉霰]文の詞を歌によむ事
同じき雅言の中にも、文章に用ひて、歌にはよむまじきも多し。たとへば、「ふみをや
る」などいふことは、雅言ながらも歌にはよまぬ詞なり。すべてふみのことばをば、古
へのよき歌共には、「水ぐき」「玉づさ」「「跡」などのみよみて、「ふみ」といふこ
とは、或は「まだふみも見ず天の橋だて」などのやうに、橋を踏ゆく事などによせてこ
そよみたれ。たゞにふみとは、をさをさよまざりき。また答へすることを「いらへ」と
いふは、文章には常のことなれども、古へのよき歌にはおさおさ見えず。歌に多くよむ
は、近き世の事也、大かた此たぐひと多かるを、今はえしもあげず、みなもらしつ、な
ずらへてわきまふべし。物語の語をとりてよむにも、此こゝろえあるべき事にて、文章
にてはめでたき詞も、歌によみては、いやしきがあるぞかし。また同じ言も、文と歌と
にて、いひざまつゞけざまのかはるべきもおほし。しかるを近世人は、すべてこれらの
わきまへなく、歌にはよむまじき詞を好みよみて、それをかへりてめづらしくおかしき
ことに思ふめり。大かた近き世、すべて恋の歌の、殊につたなくいやしげなるも、おほ
くは此ゆゑ也。或は物語の詞つゞきを、やがてそのまゝによみなどして、歌のやうにも
あらぬがおほきを、きく人はたえわきまへで、めづらか也、とめではやしあふめるは、
かへすがへすもかたはらいたし。(中略)
 てふ  ちふ  とふ
「といふといふ」ことを、歌には、さまによりて「てふ」共いひ、万葉などには「ちふ
」とも「とふ」共多くあり。「皆」といふをつゞめ、また「はい」をはぶけるなどにて、
いづれも歌詞也。しかるを近きころ、古学の輩、例のしひてふるめかさむとては、文に
も、「といふといふ」べき所をば、おしなべて皆「てふ」また「ちふ」とくは、いと聞
ぐるしきわざなるを、よきことゝ思ひてや、中古のふりの文にさへ、然かく人おほき、
そは殊に聞ぐるし。抑これらは歌の詞にこそあれ、文には古へより例なきことなれば、
古体にもすべて書べき詞にあらず、中古のふりにはさら也。(中略)
 
  歌と文との詞の差別
例えば、花に「たをる」といふは歌詞也、文にはたゞ「をる」といふべし。「車」を「
小車ヲクルマ」といふは歌詞也、文にはたゞ「車」といふべし。「さよふけて」といふは歌
詞也、文には「夜ふけて」といふべし。(中略)
かやうのたぐひいと多し、今が思ひ出るまゝに、たゞ二つ三つをあげつ。
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