13a  手本歌/現代
 
北原白秋
 紫蘭咲いていささか紅き石の隅目に見えて涼し夏さりけり
 
 昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の薮をいでて消えたり
 
 君かへす朝の敷石シキイシさくさくと雪よ林檎リンゴの香のごとくふれ
 
 日の光金絲雀カナリヤのごとく震ふとき硝子に凭ヨれば人のこひしき
 
 ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心震ひそめし日
 
 手にとれば桐の反射の薄青き新聞紙こそ泣かましほしけれ
 
 春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外トの面モの草に日の入る夕べ
 
 石崖に子ども七人腰かけて河豚フグを釣り居る夕焼小焼
 
 薄野に白くかぼそく立つ煙かすかなれども消すよしもなし
 
木俣修
 すべもなく暑きこの昼氷片ヒョウヘンのうかべる水に葉緑素嚥ノむ
 
 傷舐ナめてゐし犬をおもふ寒き夜の机ツクヱにこころ索漠とゐて
 
 しづまれる篁タカムラの空きさらぎの星生アれつぎてこころみたしも
 
 研究室のけふのひと日もたひらぎのおもひに坐るものならなくに
 
 木の椅子をきしませつつ時間待つ夜の講師室誰も外套を着て
 
 脱線し脱線しゆくさびしくて幾分か早く夜の講義閉づ
 
 麺麭パンを噛むひまも書物に眼をさらしみな孤独なり夜学の教師ら
 
 椅子きしませ骨きしませ夜に講じゆきけづるいのちに冬は来向ふ
 
 六十歳のわが靴先にしろがねの霜柱散る凛凛リンリンとして散る
 
 生終へし蜻蛉アキツの翅ハネにひかりつつ落葉のうへにいく日ヒ保たむ
 
 文献にささへられたる論ひとつ書き了へてけふのこころあやふし
 
 寝不足にひと生ヨおくらむさだめとも埃を吹けり夜ヨヒの几ツクヱに
 
 むくはるるうすき仕事をえらびつつはげみし夏も過ぎゆかんとす
 
窪田空穂
 鉦鳴らし信濃シナノの國を行き行かばありしながらの母見るらむか
 
 つばくらめ飛ぶかと見れば消え去りて空のあをあをとはるかなるかな
 
 この子ゆゑ命イノチ懸けにし母なりと我は知れれど子は知らずけり
 
古泉千樫チカシ
 みんなみの嶺岡山の焼くる火のこよひも赤く見えにけるかも
 
 秋の稲田はじめて吾が児に見せにつつ吾ワれの眼マナコに涙たまるも
 
 茱萸グミの葉の白くひかれる渚ナギサみち牛ひとつゐて海に向き立つ
 
 秋さびしもののともしさひと本の野稗の垂穂瓶にさしたり
 
斎藤茂吉
 ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも
 
 けだものは食タベもの恋ひて啼き居たり何といふやさしきぞこれは
 
 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
 
 沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
 
 死に近き母の添寝ソヒネのしんしんと遠田トホダのかはづ天に聞ゆる
 
 我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足チタらひし母よ
 
 のど赤き玄鳥ツバクラメふたつ屋梁ハリにゐて足乳根タラチネの母は死にたまふなり
 
 わが母を焼かねばならぬ火を持てり天つ空には見るものもなし
 
 星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり
 
 あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
 
 高原に光のごとく鴬のむらがり鳴くはたのしかりけり
 
 みちのくに病む母上にいささかの胡瓜を送る障りあらすな
 
 みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる
 
 草づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ
 
佐佐木信綱
 よせては返す時間の渚ああちちの戦中戦後花いちもんめ
 
 野の末を移住民など行く如きくちなし色の寒き冬の日
 
 大門のいしずゑ苔に埋もれて七堂伽藍たゞ秋の風
 
 ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲
 
 秋さむき唐招提寺鵄尾の上に夕日は照りぬ山鳩の鳴く
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