宗教に想う

「法華経を読む」を読んで H17.02.03

「或る人問う」
 人の「言うこと」、つまり「主義主張」を信じる目安と云うものはあるのか……
 
「我は想う」
 通常の世の中において、長く感じる演説とか、説教講義とかにおいて、その内容に「信 じるの足る事柄」が50%以上あれば、残る49%の内容がどのようなものであれ、その 論者の人格は保証され、論旨は支持される、と自分は常々想っている。
 
 何故なら、論者を懐疑的に評価するということではなく、その論説が長くなれば なるほど、
@論者は、理論的な一貫性を保ち続けることが難しくなる
A視聴者は、理解力を維持し続けることが難しくなる
からである。
 
 従って、巧みな論者は、苦肉の策として残る49%の部分に、例え話や笑い、趣旨に無 関係なことを挿入することによって、その論説をまとめ上げることとなる。
 
「或る人問う」
 と云うことは、「法華経を読む」と云うことは、法華経の中には信じるに足る「教え」 が50%しかないと云うことか……
 
「我は想う」
 法華経に関して、前述のような懐疑的な先入観を持って評価しているのではない。立 正大師(日蓮上人)の出現以来、わが国には法華経ないしは立正大師に関連する宗派宗 教が数多く出現した。何故、そんなに法華経に魅力を感じるのであろうか。
 そんな疑問を持っていたので、浅学菲才の範囲内で、「法華経を読む」を読んでみた のである。

「或る人問う」
 立正大師は、仏であると思うか、神であると思うか。
立正大師は、限りなく「神に近い存在」になるべく、その一生を終えたのではないか と主張する人もいるようであるが……
 
「我は想う」
 ご案内のように、わが国の仏教徒は、各宗派とも、いわゆる「成仏」すると云うこと、 「仏」つまり限りなく「神に近い存在になる」と云う目標の下に、仏の道を修行してき たものと認識している。それを新たな感覚で法華経の教えを体験し体得したのが、立正 大師であったろうと想っている。  その意味において、立正大師は、「限りなく神に近い存在であると、信者は思ってい る」と自分は想っている。

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