時処位に想う

集団間の争い H15.03.31

「或る人問う」
 集団間の争いは解決出来ないか。
 
「我は想う」
 集団間においては争いはある、と述べた。破れた集団の指導者は滅び、やがて新しい 長を選んで、集団は蘇る、と述べた。
 
 集団は通常、「話し合いの輪 - 和」によって団結が保たれたり、長が選ばれたり、 規範が決定されたりする。長が独善的に振る舞っているような集団にあっては、他集団 との協調は図られない。長の独善には、集団内の人々を守り、発展させようとする世界 観が欠けているからである。如何なる集団にあっても、国民として - 国民足るべき世 界観を持っていない限り、その存続は認められないであろう。
 
 従って、国民として - 国民足るべきの世界観、つまりわが国の普遍的な宗教的世界 観の許に、集団は立脚しなければならないのである。その世界観が具現されたのが、時 処位における「話し合いの輪 - 和」である。
 
 集団の存立は、無機的である。互いの集団が同一線上に「話し合いの輪 - 和」を築 いていれば、争いは起こらないが、必ずしもそうではない。そこにはもう一つの世界観 が望まれる。つまり「話し合いの輪 - 和」を補強したり裏打ちしたのする理念として 、「かけがいのない生命」に立脚する世界観である。この世界観は、あらゆる宗教を超 越して存在し得る考え方であると想う。

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