時処位に想う

形の上からの時処位 H15.03.30

「或る人問う」
 時処位を形の上から見極めるのは難しいとは、どう云うことか。
 
「我は想う」
 時処位の目指す目的とは何か。
 演奏会場での究極の目的は、立て前は神に捧げる演奏なのであったが、結果として会 場が歓喜に酔った。祭式の目的も神への感謝 - 奉仕にある。駅伝は選手各自の努力と 自チームの勝利にある。
 
 演奏も祭式も一チームのみので、他との競り合いはない。駅伝には必ず他チームが存 在する。
 演奏において神から判別し得るのは、指揮者の指揮棒と奏でられる曲だけである。バ イオリニストが如何に技術的に優れていても、指揮棒の指示を仰ぐだけである。
 祭式には指揮者はいない、そこに感じられるのは祭員の奉仕における誠だけである。
 駅伝にも指揮者はいない、或いは指示があっても、頼るのはその日の選手の身体の調 子のみである。
 
 若し、駅伝に他チームが参加しなかったらどうであろうか。それは駅伝とは言わず、 「道中」である。そこで走っている選手は、只管ヒタスラ監督の指示を全うするだけである 。選手個々の荒い息遣いは必要としないのである。
 つまり見た目に綺麗な「道中演技」になる恐れがある、と云うことである。延いては 、このことが停滞、或いは歪んだ時処位となり得るのである、と想う。

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