第一場、夜(二一頁)
ファウスト書斎夜の場は、全編中最も特色を発揮して居る部分の一であるが、ゲーテ
は此の場の光景を描出するに有名なる画家レンブランのファウスト書斎の図をモデルに
したそうである、乃ち時代は十六世紀、場所は古びた壮大なる寺院の高楼に於ける一室、
博士ファウストは此の時既に五十歳を超えて居る、で画の中央に直立して居る博士は、
白帽に長い服を着けて、熱心に鏡面を凝視(みつ)めて居る、其の鏡は壁に掛けてある
のでは無く、人が支持(さゝ)えて居るのであるが、其の人の顔は、窓の中央に置かれ
たる平円版鏡の陰に隠れ、片手は鏡を支持え、片手は鏡面を指して居る、其の平円版鏡
の周囲にはINRIの四文字を記し、中央には更に神秘なる文字を列記し、そこから
妙なる光を放射して居る、夫れで博士の背後は書棚で、右には天体鏡、左には骸骨が
冷然としてファウストを見下して居ると云うが夫れである、ゲーテが最初ファウストの
断編を出版した際には此の画を添付したそうである。 ノストラダムス(二三頁) 即ちミケル、ド、ノートルダムは、千五百三年十二月十四日に生れ、信仰の上に超絶 した、神秘なことの研究に其の身を委ねた人である、此の人の著書は所謂魔書であって、 当時 − 中世の迷信深き時代 − 信仰深き時代には一般に読むことを厳禁されて あったのだが、既に学び尽して更に読むべき会心の書籍無く、徒らに悶えて尚お物質の 真髄を捉うる能はざる彼ファウストは、禁を犯して私かに此の魔書を繙かんと決心の臍 を固めたのである。 地の精霊(二六頁) 当時寺院が蔵して居った幾多の神聖なる書籍は、彼ファウストの飢を充たすに足ら ない、恐らくは、現代科学の総てが、彼の足下に跪いたと仮定しても、夫れは彼に取て 何等の用をも為さなんだであろう、悟道に入らざる彼は、素要の深い丈け心の悩みは 強い、併しファウストの要求に依て出現した地の精霊は、果してファウストが刻下の 急を救うに足るであろうか、否、否、此の際ファウストに多少にても満足を与え得る 力 − 人間以上の力のあるものは、只メフィストの如き悪魔あるのみだ、されば 此の地の精霊の消失はメフィストの出現に対する緊要な伏線となるのである。 ワグネル(二九頁) 此の人物及其の性格は「ファウスト物語」から来たものであるが、当時大学の教授 連は、何れも助手として立派な学者を従えて居たものである。地の霊消失して、 ファウスト唖然たる処へワグネル現わる、味う可き変化の妙である。 復活祭(四〇頁) 恐ろしき毒薬の一滴は将にファウストの口に注入せられようとする刹那、彼の耳を 襲うた復活祭の讃美歌は、何故に彼の手から毒の杯を取落さしめたか、抑も讃美歌 なるものは、彼に取て何の価値があるだろうか、彼ファウストは既に信仰を退けた人 ではないか、恋に悶ゆる者、子の愛に思をやる親、或は自動車を馳らす人々などに取り ては、讃美歌は真の慰藉であるかも知れぬが、彼ファウストに取ては何等の役には立 たぬ、這般信仰的の総てを排棄し了りたる彼に対しては、復活のことは一の虚誕に 過ぎぬ筈である、爾かも彼は讃美歌を聞て翻然服薬を思い止まった、乃ち此の間に 於ける彼の心理作用は、少しく説明を要する処であるが、それは外でも無い、追想 − 往時の回想が彼を自殺から引止めたので、夫れで此の回想を起さしめたのは、 復活祭の讃美歌であるのだから、此の結果に因て見れば、彼は理性に依て救わたの では無く、全く神の摂理に依ったことゝなる、以て大なるゲーテが思想の一斑を見る べしである。 |
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