GLN町井正路訳「ファウスト」

第十二場 庭園

マーガレット  貴郎は交際が御上手ですから、至る処に御友達が沢山御在りでしょう、而して皆な妾 よりは伶俐(りこう)な方ばかりですね、然し去る者は日々に疎しとやらで片端から 忘れて御了いでしょう。
 
ファウスト  貴女、私は偽は申しません、世人の所謂伶俐は、虚栄や狭量の別名です。
 
マーガレット  何故ですか。
 
ファウスト  真に質朴で無邪気な人は、反って自分の真価を知らないで、つまらぬ者の様に思うて 居ります、誠に謙譲と温和とは天の賜です。
 
マーガレット  貴郎は妾の事を、たゞ一寸思って下さる許りでしょう、妾の方は忘れたくっても忘れ る事はできません。
 
ファウスト  失礼ですが、貴女は御独りの事がありますか。
 
マーガレット  はい、家の用事は知れたものです、けれど、始終注意して居なければなりません、 それに女中も居りませんから、煮焚も拭掃除も、編物も裁縫も皆独りで致さねばなりま せん、朝は暗い内から、夜は遅く迄ごたごた致して居ります、それに御母さんは何事にも 細かで御座いますので、と申して別に節約せねばならぬと云う理(わけ)ではないので す、寧ろ楽に暮せる方で御座います、御父さんの遺して呉れました小さな家屋と、町端 (まちはずれ)に僅か許りの庭園がありますから、只今では可なり平和な日を送って 居ります、兄さんは軍人で御座いまして、妹は亡くなりました、然しあの子では随分苦労 を致しましたが、それでもあの様な可愛い子が傍に居てくれゝばよいと思います。
 
ファウスト  貴女に似て天女の様だったでしょう。
 
マーガレット  妾が育てたのですから、ひどく妾に懐(なず)いて居りました、愍然(かわゆそう) に、未だ生れぬ先に御父さんは亡くなり、生れて後は御母さんの肥立が悪く、妾共は とても助かるまいと断念(あきら)めて居りました位です、其後段々全快致しました ものゝ、却々赤ちゃんに乳をやる事が出来ませんので、妾の手一つで、牛乳と水で育て 上げましたから妾の子同様です、子守歌を歌って寝かし付けたり、膝の上で笑わしたり して成長致しました。
 
ファウスト  其れは御苦労でしたが、併し御楽みだったでしょう。
 
マーガレット  随分心配も致しました、夜は子供の揺籃を寝床の側に置きまして、少し動いても直ぐ 起きて乳を飲ませるやら、抱いて床に入れるやら、それでも啼いて仕方のない時は、 床から起きて抱揺りながら室の彼方此方を歩いて見るのです、朝は早くから起きて水仕事 を済ませ、市場に行って買って来たものを煮焚すると云うのが、毎日の仕事で御座いま した、こんな事情に駆られまして、何の慰みが得られましょう、しかし食事と休息とは 何よりの愉快でした。
 
 両人行き過ぐ。

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