私の神道「死後観」

霊魂は退屈していないのか

「或る人問う」
 前にも記したが、臨終に立ち会うと、 「あの世で、平安にのんびり暮らして欲しい」 と云う考え方が支配的になってしまうが……。
 
「我は想う」
 ここで冷静になってに考えてみると……、私は次のようなことが、 走馬燈のように頭をよぎる。
@現世は本当につらい日々の連続であったのか、もしそうであったとしたら、 あの世で再挑戦とようとする気になれないのか……
A逝く瞬間は、苦なのか、無記憶なのか、平安なのか……
B楽しいこと嬉しいこと、そんなことは全然なかったのか……
C天国極楽は、生き甲斐のある所なのか……
D天国極楽で安らかに暮らすと云うことは、退屈しないだろうか……
 ……。
 
「或る人問う」
 私の一代は終わった。何も思い残すものはない。今、悠々自適の境地に居る。 何故に、物を思うこと、考えること、想い悩むことがあろうか……。
 
「我は想う」
 しかして、死後は、夢を見ないのであろうか……。
 
 生きているときは、
@眠っているときは、夢を見る。過去(ついさきほどの現実実態を含む) のことなどを織り交ぜて、
怪奇的な、奇跡的な、辻褄の合わない……、
昨夜の夢が、次の夜に引き継がれ、又は新たな装いで、次々に更新されてゆく、
日月は経過してゆく。
A目覚めているときは、頭脳は休止することをしない。
次から次へ、考えだされこと、思い出されたことが、取捨選択されつつ、 あるものは忘れ去られ、あるものは片隅に追いやられ、次から次へ更新されてゆく。
 宗教として信じてきた事柄(教義教典の意味する事柄など)も、 徐々に、次第々々に、奥へ奥へと、更に深い価値観と云うか、真理と云うか、 奥義を究明しようとの意識が働いてゆく……。
 
「或る人問う」
 死後には、このような意識は全く働かないのであろうか。
 生前に信じてきた宗教は、自分はもしかして、或いは − 他の人に比べ、 又は教主教職者の期待感に比べ −
@浅かったかも知れない……
A怠慢であったかも知れない……
Bまだまだ努力の余地があったかも知れない……
 
 たとえ遺してきた子弟達が、自分を手厚く祀ってくれていたとしても……。
(「祀ること」については、後述)
 
「我は想う」
 ………。

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