私の神道「死後観」

私共の思い

「或る人問う」
 死を看取るに当たっての、私共の心の動揺と云うか、感情と云うか、
@心も、身体も、次第に薄れて行く……
A安らかに眠るが如く、逝ってゆく。静寂の世界へ逝ってゆく。永遠の世界へ……
B……。
 
 遺された私共は、一人ひとりが、銘々が、各々が、 逝った人の死後のことを想像する。
 
 身体が静止するのなら、心の働きと云うか、頭脳の活動と云うか、
心身共々、全てが静止すると云うか、永遠の世界へ逝ってしまうのだと……。
 だから、逝った人は、心身ともに安らかに「眠って欲しい」
(別の言い方では「永遠に安らかに眠っていて欲しい」)……と。
 
「我は想う」
 ………。
 
「或る人問う」
 現世の、全ての、あらゆる思想哲学は、生きている私共の思考力のみを対象 に考え出され、構築されてきている。
 逝った人の死後の世界は、私共生きているヒトが考え、想像し、信じることであって、 「逝った人には、考えると云うか、思考することは出来ないのだ、 あってはならないのだ」、と。
 
 「身体が死ねば、心(頭脳)も死ぬんだ」と、「死後の世界 − 天国とか、地獄とか − に想いを馳せることが出来るのは、私共生きているヒトだけである。逝ってしまえば、 元も子もないのだ」と……。
 
 であるから、死後の世界は、私共生きているヒトによって考え出された 「死後観によってしか、(死後の世界で)生きられない。 たとえ、生前からの心の葛藤があったとしても、 また生前に思い残したことがあったとして、やり残したことがあったとしても……。  その解決策は、全て、かつまた絶対的に、遺された私共生きているヒトの 胸先き三寸にあるのだ」。
 
「我は想う」
 ……。
 
「或る人問う」
 例えば逝った人が、
@生前に、多少の悪事をしたことがあったとしても……
Aいや、凶悪人であったとしても……
Bこの近くに留まっていようと望んでいたとしても……
 しかし、しかしである、たとえ逝った人がそのような人間であったとしても、 遺された私共全ては、
 「私共は、逝った人を手厚く葬り、かつ心を籠めて鎮魂や供養をすること − これが遺された私共の務めなのである。
 
 私共は、この義務を果たすことによって、
@逝った人も浮かばれる(全ての人は天国極楽へ行ける)し、
A私共も悔いなく生きられる(幸福になれる)のだ……。
 したがって、逝った人は、何も考えないで、心配したりしないで、
たとえ、
@霊魂がうずうずしたりしていても、
A新たなる死後観を思いついたりしても、
Bはたまた、逝く先をちょくちょく変更したりしないで、
 ……。
 私共遺されたヒトの考え方ややり方に従ってもらいたい、 いや、従ってもらわなければならないのだ……、と。
 
「我は想う」
 ……。

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