「或る人問う」 外見だけが綺麗になっても、心のどこかに汚れが残っていたら、無意味な ことたと思うが……。 「我は想う」 好いところに気がついた。 「或る人問う」 えっ……?。 「我は想う」 人、そう、全ての人々に言えることではあるが、「心の中が全て汚れている」 と云うことはあり得ない。 「或る人問う」 いや、そうではなくて……。 「我は想う」 分った分った。 自分の心が汚れているかどうかは、鏡を視て、自信を以って、鏡の中の自分に 「ありがとう」と言えるかどうかであろう。 「或る人問う」 段々と自信が湧いてきたような気がする。 でも、「心の中が全て汚れている」人には、このことは効果がないんだね。 「我は想う」 何を基準にして、「心の中が全て汚れている」と断定出来るのかね。 「或る人問う」 ……。 「我は想う」 森羅万象には、必ず裏表があるように、人の心の内面 − 思想信条 − にも、 必ず表裏が存在すると言い得る。 「或る人問う」 万事を二者択一で処理することには、弊害あると思われるが……。 ※ジェンダー・フリーと補うこと 「我は想う」 ここでは、心の中が汚れているかいないか、誠心を持っているのかいないのか……、 についてのことを話し合っているので、三元論まで飛躍しないようにしよう。 「或る人問う」 えっ?…… では、鏡の中の自分に向って、「ありがとう」と言うのは、自己満足ではないのか? 「我は想う」 鏡の中の自分の背後には、全ての物が存在しているのである。換言すれば、 自分が今ここに存在していると云うことは、自分以外の全ての物もまた存在している と云うことなのである。「ありがとう」も「戴きます」も、それを言う対象は、自分以外の 全ての物なのである。 ※戴きます考 |
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