私の神道

義務と権利

「或る人問う」
 ここで云う「義務」とは、
 ……「人が人として、あるいは立場上、身分上当然しなければならないこと。責務。」……のことと理解するが。
 
 また、ここで云う「権利」とは、
 ……「何らかの原理や存在によって一定の主体に賦与される、ある行為をなし、またはなさぬことができる能力・資格。」……のことと理解するが。
 
「我は想う」
 社会組織の中での権利義務としては、そのとおりであるが……。
 
「或る人問う」
 「神道」では、義務とか、権利とかを特に「言挙げ」しないと云うこと……?
 
「我は想う」
 私が想うには、神道においては、別段義務とか権利とかを意識することなないであろう。
 
「或る人問う」
 例えば、前記の「優しさ」「素直さ」に関しては、当該者は「時処位」の中で 自分がどの立場にあるか、
①つまり勝者強者(=優しさ)の立場にあるのか、
②それとも敗者弱者(=素直さ)の立場にあるのか。
 
「我は想う」
 この場面では、もし自分が
①行動を起こしたいときは、「優しさ」をもってすれば良いであろうし、
②もし考えが先にたったら、それは「素直さ」をもって対処すれば……。
 
「或る人問う」
 いわゆる、例えば「慈善行為(課題)」と云う義務を果たせば、 「悦び(達成感・幸福感)」と云う権利を得ることになるが……。
 この悦び(=勝者強者の権利)を得たと云うことは、 その次には、「新たなる慈善の行為=義務」が控えている……と云う構図に。
 
「我は想う」
 ……。
 
「或る人問う」
 この場合、敗者弱者側の心の内と云うか、思いと云うか、希望は どのようになっているのだろうか?
 
「我は想う」
 うむ。勝者強者側の一方的な思い込みではないと想うが……。
 
「或る人問う」
 うむ。
 
「我は想う」
 これは、三すくみ(=三元論)のこととして考えれば、理解しやすいと想う。
 勝者敗者による慈善の結果、敗者弱者側がどのように変身して、新たな「時処位」 が創られてゆくのか……。
 
「或る人問う」
 敗者弱者側が慈善行為を快く受け容れると、一応はその慈善行為は 成就したことになるのでは……。
 
「我は想う」
 この慈善行為は、そのように敗者弱者が素直に受容したとき、その事実を第三者、 つまり弘く公けにする義務が生じるのでは……。
 
「或る人問う」
 と云うことは、敗者弱者側が、安心と云うか、救済と云うか、換言すれば愛と云うか、 恩と云うか - そのような権利を取得したが故に、そのことに称え、弘めると云う 義務を負うことになるんだね。
 
「我は想う」
 そのような、権利義務の情景を成就させたいものだと……。
 
「或る人問う」
 必要により、立場が入れ替わって行くと云うか、「時処位」が更新されて行く、 と云うことなんだね。
 
「我は想う」
 ……。

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