△バックボーンとしての宗教観
「或る人問う」
ここで、人生哲学の根幹となる、バックボーンとしての宗教観について考えてみ
たい。
「我は想う」
……
「或る人問う」
わが国に馴染みのある宗教の中では、ヒトの本性(ほんしょう)に関して、
@キリスト教系では、ヒトの本性は、生まれながら原罪を負っているので、生きて
いる限り、贖罪のために、この世の森羅万象に対して、果敢に努力しなければなら
ない。即ち、ヒトはこの世界において、特別に認められて存在しているので、この
果敢なる努力 = 宇宙解明への挑戦は止むことはあり得ない……。
A仏教系では、ヒトには生老病死と云う四つの苦がまとわり付いているが、八正道
を実践すれば、仏の世界に導かれ、苦から免れる。即ち、(わが国の大乗仏教徒
は)死後でしか、仏の世界へ到達出来ない……。
「我は想う」
あまりも極端過ぎる解釈ではないかな……。
「或る人問う」
B日本の神道系では、ヒトの本性は元々無垢(善とも、また善でも悪でもなく中性
であるとも)であるが、月日の経過と共に罪や穢(けがれ)が生ずる。従って、随
時、又は必要により心身を清浄(禊とも、お祓いとも)にしなければならない。そ
の結果確認として、即ち神鏡を仰ぎ見る如く、鏡の中の自分をジッと見てみること
であろう。
別掲参照:想問集成「お祓い考」「鏡考」「鏡を覗く考」
「我は想う」
なるほど、そして……。
「或る人問う」
ここで、平和の概念のことについて整理してみると、概ね次のようになろう。
別掲参照:強者は必ず勝つのか「戦争放棄と関係改善」
このことを念頭に入れるなどして、更に整理してみると、
@欧米など(例えばキリスト教系)では概して積極的平和、つまり平和とは努力し
て作り上げるものである、と考えられよう。
A東洋などでは概して消極的平和、つまり平和な社会とは、別世界に存在するもの
であるが、その別世界は何らかの形で現世界と繋がっていると、考えられよう。
「我は想う」
Bわが国の人達も、平和とは消極的平和=安心な社会と理解しているようだね。
そして、その平和な社会作りは、鏡の中にある自分が鍵になる、と云えよう。
「或る人問う」
次に、理想の世界について考えたいが……。
「我は想う」
……
「或る人問う」
ヒトは何時も夢を見ている − 理想郷(空想上の理想的社会、ユートピアと
も)とか、桃源郷のことを……
そしてまた、「青い鳥」ことも考えている……
「我は想う」
本当だね。
「或る人問う」
すると、本稿の結論は、
「青い鳥は、あなたの目の前の鏡の中にいる − 即ち、青い鳥はあなた自身なので
ある。鏡の中の自分の顔が、結局、青い鳥の正体なのか、と云うことに気付かれる
だろう」と云うことか。
「我は想う」
うむ。
「或る人問う」
前掲「落ちがあってはならない」の項の、補われるべき1点(又は何点) = そ
の糸とは、鏡の中の自分の顔と、その向こうにあるであろうと見定められる神
(仏)とを結びつける糸のことか。
「我は想う」
心身を清浄にして、鏡の中をジッと見つめる……。
「或る人問う」
……
「我は想う」
鏡の中の自分の顔を見れば、あなたが次に何をすればいいかが、自ずと分かる。
その決意した行動こそが、あなたの人生哲学のバックボーンではないたろうか、な
どと想われてしかたがない。
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