徒然想問

ジェンダー・フリーと補うこと


△補い合うことと平和
「或る人問う」
 では、平和に関しては?
 
「我は想う」
 前述のとおり、我々は「互いに競い合う」と云う本質的な宿命を背負って、今現
在を生きている。新説奇説を発表するのも、運動競技に参加したり、テレビに出演
したり、身を装ったり、物を作ったりなど、これら総てが「競い合う」ことの具体
化例である。
 
「或る人問う」
 ヒトとヒトとの関係においては、競い合うことは、必然的なんだね。
 
「我は想う」
 この競い合うことを必要最小限にするのが、矢張り何と云っても「誠実な」で
あると考えられよう。

「或る人問う」  ヒトの腸内には善玉菌と悪玉菌とがあり、この力関係において、悪玉菌が優勢と なれば、ヒトの病気は進むとされる。  この世には、悪は存在し続けるのだろうか。   「我は想う」  この例では、悪玉菌のことを採り上げられたが、自然界では、悪玉菌が消滅する ことはない。否、消滅させようと意気込む必要はない。必要最小限の悪玉菌は、存 在するものと認識されよう。   「或る人問う」  この世には、地震や台風、病原菌など、予想外の災害が発生しているが、これも 悪なのか。  ヒトが自然界に挑んで、ヒト自らの勢力範囲を拡大してゆく過程においては、こ れら災害の元締めを「悪の元凶」と………   「我は想う」  「災害は忘れたころにやってくる」と云うことを自覚して、ことを運ぶべきであ ろう。自然にとって、ヒトによる予想外の開発は、ヒトに対しても予想外の災害を もたらすとも考えられよう。
「或る人問う」  戦争のない、災害もない、例えば、桃源郷のような理想社会に住みたいと云う願 望が、人々の間に広まっているようだが………   「我は想う」  平和には、対立する二つの概念が考えられる。 @神々の住む国、天国、極楽浄土、桃源郷など、換言すれば無菌状態の、極めて清 浄で美しく静止した永遠の所、と云う考えである。  ところで、ここで指摘したいのは、ヒトは体内で電気的信号(つまり電流)を相 互に送受信するすることによって、生きているのである。その電気的信号は脳の中 でも、活発に働いている。脳が働いていると云うことは、喜怒哀楽などをも感じて いることである。  この@の場合は、果たしてヒトの脳の電気的信号は、快適に機能しているのであ ろうか、との疑問は残る。   A一家団欒の場面、感激喝采歓喜の瞬間、自然の恵みを享受しているとき、対峙す る両軍の間を駆け抜ける緊迫した空気、短距離での出発時の雰囲気など、と云う考 えである。  ここで指摘したいのは、ヒト各々には「悪」が潜んでいるかも知れない云うこと である。ヒトの奥の、そのまた深奥に、果たして「小悪魔」が潜んでいないだろう か、と云う疑問は残る。この小悪魔が、この場合の平和の均衡を乱すとも考えられ よう。   「或る人問う」  第三の考えとして、魑魅魍魎の棲む森の中も、平和を求めるためにさまよう人々 がいるようだが………   「我は想う」  もし、ひと時、独りの平和の世界に浸りたいとしたいなら、森の中も好いであろ う。しかし、森の奥には出口があり、矢張り現実の世界が待っているのでないだろ うか。また、私共の先祖の霊魂は、森の中に在り、子孫を温かく見守っているとも 考えられよう。  
「或る人問う」  既述の中で、聖書などの記述内容に齟齬が見受けられると………   「我は想う」  もし聖典教義が人の手で記述されたものであるとすれば、森羅万象、総てを網羅 した完全無欠のものは、存在し得ないということである。   「或る人問う」  と云うことは、聖典教義だけで、ヒトの言動を思いのままに御することは不可能 であると。   「我は想う」  ………   「或る人問う」  では、目指す「平和」とは?   「我は想う」  今ここで考えられることは、平和に限らず、私共は、幸福に、有意義に、そして かけがえのない人生を送るためには、次のことを念頭におかれることを希望した い。   @生き続けていることとは、そこには必ず葛藤や奪い合いが常在していると云うこ とであろう。 A時の経過とともに、知らず知らずのうちに、ヒトには深奥までも、悪(罪や穢 れ)がまとわりつく、これを随時又は必要により祓いに祓い、清めに清めることで あろう。 Bこの世の総ての事柄は、「三すくみ(三元論)」によって解き明かされるであろ う(H17.12.25)。

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